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本屋さんの条件

 どうしても買わなきゃいけない本があって、重い腰をあげて難波に行った。
 無印良品のビルに、本屋のLibroが入っていたので、まずそこでチェック。Libroはアート系の本屋さんというイメージがあるけど、それ以外のジャンルもきちんとそろえてあった。でも、一見本をそろえているなというかんじだったのに、お目当ての本はちっとも見つからない。取り寄せになるといわれて、そんな悠長なことしてられないので、千日前のジュンク堂に向かった。あっという間にお目当ての本がみつかる。Libroが空いていたのは平日のせいかと思っていたけど、ジュンク堂は昼間でも人がいっぱい。もちろん品揃えの差もあるけど、根本的に本に対する態度が違うように思った。
 Libroの本棚を見ていると、どうしてこの本をここに並べるかな?と、視線がよくつまづく。本のタイトル等からここに並べたんだろうけど、ほんとはこっちのジャンルに置くべきだよ、というのが多い。それに比べて、ジュンク堂の本の配置の仕方は整理整頓されている。ジャンルごと、テーマごとにカチッと本をそろえていて、見ていて非常に気持ちがいい。
 小さな古本屋さんだと、テーマやジャンルと関係なく本がランダムに並べられている店があったりする。店主の性格がそのまま出ているんだろうけど、見る方にとってみたら偏頭痛が起こりそう。本屋さんは大きかろうが小さかろうが、合理的に秩序だって本を並べてほしいものである。
 本屋めぐりでうろうろしたけど、一段落ついたので、もう一度無印良品のビルに戻る。ここの一階にChai MUJIという中国茶のカフェが入っているのだ。コストダウンしているからセルフだけど、中国茶が300円〜400円程度で飲める。何より、座席の配置がゆったりしていて、店内が明るくて、すっきりしていて、音楽がかかっていない。本を読むには最高の環境だ。気に入らないカフェや喫茶店の特徴は、座席がつめつめで、適当な音楽がかかっているところ。FMラジオや有線がかかっているのは最悪。何にもかかっていないほうが絶対まし。
 Chai MUJIでは、青茶の中国茶を飲んだ(名前を忘れた)。ポットのお湯を足し足し、4杯は十分飲める。中国茶はハーブティも70種類くらい販売していて、自分で量り買いできるから、なかなか楽しい。3種類ほどのお茶を買って帰宅した。
(01.18..02)

気苦労な散髪

 髪を散髪するのがあまり好きではない。髪型が変わることがイヤなわけではないから、正確に言うと、美容院に行くのがあまり好きではない。美容院でつくってもらうメンバーズカードには、「20日に一回のペースで通ってください」などと書いているけど、20日に一回ってウソでしょ?というかんじだ。思い起こしても、だいたい150〜180日に一回くらいのペースでしか通ってないし。
 新商品をすすめてくるのをいちいち断るのがいやだし、髪を洗うときに顔にガーゼをかけられるのもいやだ。まあそういうのは別にたいした理由ではないんですけど。化粧品もそうだけど、特定の店員や美容師と懇意になって得意客になるという芸当が、どうもへたくそなのが原因かもしれない。
 美容師さんはかなり個人情報を聞いてくるし、それをおそらくメモっている。次にその店にいって、別の美容師にカットしてもらっても、以前来たときに話した内容をふってくるのでちょっとこわい。
 てるてる坊主みたいな格好で無防備なまま自分のことを喋らされるのは、喋ること自体がかならずしも苦手ではないあたしとしても、正直苦手だ。これを突破する方法は、美容院に行かないか、懇意の客になって自分のことをよく知ってもらい、喋ること自体に抵抗を感じなくなるようにするか、だ。前の選択肢は、それをやめたらさすがに枯れてるみたいでちょっと。後者は、正面突破かぁ・・・そういう息のあう美容師さんが見つかればいいんだけどなあ。20日に一回のペースで探しに行かなきゃだめってことかしらん。
 つい最近散髪したばかりなので、しかもまたもやベリーショートにしてしまったので、今は髪に対して非常に神経質になっている。鏡に向かっては前髪だのサイドの髪だのいじくりまわしている。
 (めずらしくも)無口な美容師が唯一聞いてきたのが、「前髪もっと切りますか?」だった。はい、と答えたら、遠慮なくジャキジャキ切られてしまった。それで前髪が眉毛の3cmくらい上にある。ほとんどない。髪型の写真集を見ても、他の女の子の髪型を見ていても、ベリーショートで前髪がすごく短いのは、個人的には好きだしかわいいなあと思う。でもいざ自分がその髪型になってみると、はたして似合っているのかどうか自信がない。
 とかなんとか思っていて、村上春樹の『やがて哀しき外国語』の「運動靴をはいて床屋に行こう」を読んだ。もう今のあたしの気持ちにぴったし!というところでめちゃくちゃおもしろかった。
 村上氏にとっての〈男の子>のイメージが
「1.運動靴を履いて
2.月に一度(美容室ではなく)床屋に行って
3.いちいち言い訳をしない」
というものらしくて、な、なかなか意外なあたりからつっこんできたユニークな<男の子>像であります。しかし以下の文章は「言い訳」というか愚痴というか、いかに床屋さんで苦労してきたかがひたすら語られていて、もう<男の子>じゃなくていいからまともな髪型にして!と叫びだすあたりは、床屋さんとの絶縁宣言? 
 んー、みんな人知れず悩んでいるのかなあ。いや、あたしは床屋さんには行かないですけどね。
(01.15..02)

文字が分解する感覚

 ちょっと前、中島敦の手紙類が見つかったというニュースがあった。中島敦といえば「山月記」。教科書で読んで、その硬質な文章に惹かれて、他の作品も読んだことがある。もう記憶もおぼろげだけど、「木乃伊」と「文字禍」という話がとてもおもしろかった。
 「文字禍」というのは、アッシリアかどこかの書記が主人公で、自分の書いている文字(楔形文字?)を見ているうちに、それがどんどん分解されていってしまうという、ちょっとパラノイドな話だった。細かい内容は忘れてしまったけれど。
 なんでこの話が印象的だったかというと、その感覚がすごくよく分かったからだ。たとえば「顔」という漢字があるとすると、これをじっと見ていると、「彦」と「頁」に分解されていき、どうみても「彦」と「頁」にしか見えなくなってくるのだ。「彦」はさらに「立」と「三」に分解され、「頁」は「一」と「自」と「八」に分解されていく。こうなってくると、もとの「顔」という漢字に戻そうとしても戻ってくれずに、漢字はバラバラになったまま。こどものころは、この感覚がすごく気持ちわるくて、めまいがしそうになっていた。
 すっかり忘れていたこの話が、マツモトさんと話をしているときに突然でてきた。中島敦の話になって、マツモトさんがこの「文字禍」がおもしろいといって出してきたのだ。正直言ってびっくりした。中島敦といえば「文字禍」という人に出会ったのははじめてだったので。多分文庫には入っていなかったと思うし、中島敦の作品のなかではマイナーなあたりではないんだろうか。
 しかしマツモトさんは、「漢字の書き取り練習で同じ画をまとめて書いた人間なら、誰でもわかる感覚だ」と力説した。あれ?そうなのかな。いわれてみたら、漢字の書き取り練習では、一行二行、同じ画ばかりまとめ書きしたことはある。でも、「だから」中島敦のあの話が気になったとは思っていなかっただけに、すごく不意をつかれた意見だった。個人的には、完成された漢字を「じっと見ていると」呼び起こされてしまう感覚、だったんですけど。
 まあ多少のちがいはあれ、漢字文化圏の人間なら誰でもわかる感覚、というのは当たっているかもしれないな。
(01.01.02)

アルヴォ・ペルトの音楽

 アルヴォ・ペルトの「ARVOS」というレコードを持っている。これが好きでずっと聴いていた時期があった。でも、どこになおしてしまったのか分からなくなっていた。天袋を探し回ってやっと見つける。なつかしい。レコードをかけて、ああそう、こういう音だった、と記憶が戻ってくる。同時に、このレコードの存在を忘れていたのに、とつぜん、再びこれを聴いてみようと思った自分が不思議にもなる。
 昔このレコードを買ったときは、わけもわからず、宗教音楽っぽいミニマル・ミュージックとして聴いていたけど、今これを聴きなおすと、自分の関心の流れからして、必然的にここに戻ってきたのかな、とも思う。
 アルヴォ・ペルトは1935年生まれのエストニアの作曲家で、80年にオーストリアに亡命。60年代には東方教会の聖歌に〈啓示〉を受けている。音楽的なことはわからないけれど、彼の音楽は〈祈り〉に近い、という印象をうける。神を賛える聖歌に作曲家の固有名詞が不要なように、ペルトの音楽も「アルヴォ・ペルト」という固有名詞をもちながら、ほとんどその「名」は消失してしまっているかのようだ。
 「悲しみ」や「苦しみ」といったものが、ペルトの音楽には織り込まれている。聴いてると、心が静まりかえっていくような気がする。シモーヌ・ヴェイユの文章を想いだす。彼女の文章は、彼の音楽と根本的なところで共鳴しているのではないかとおもう。ヴェイユはいう、「ただわたしたちの悲惨が、神を映す影である。わたしたちは、自分たちの悲惨をじっと見つめれば見つめるほど、神を見つめていることになる」(『重力と恩寵』、ちくま学芸文庫、201頁)、と。わたしは特定の宗教の信者ではないから、「神」という言葉をたやすく使うことはできない。けれども、「悲惨」を「悲惨」のままに捉えようとするヴェイユの態度には、強く心を揺さぶられる。
 24日、たまたまつけたテレビで、NEWS23が「幸福論/戦争論」の特集を組んでいた。よくできた特集だったと思う。「自爆テロ」を取っ掛かりに、パレスチナの自爆者の家族にインタヴューするところから始まり、パキスタンのイスラム原理主義者の学校でコーランを読むこどもたち、アメリカの白人中流階級の家族、アフガニスタンの国内難民、そして最後に、一筋の希望として、ユダヤとアラブのこどもたちが対話を重ねる試みが、順番に紹介されていた。
 9・11のテロ事件は、この世界が20世紀から遠く離れてしまったかのような印象を与えたけれど、ペルトやヴェイユら20世紀が残した作品は、今のこの状況にまったくそぐわなくなった、などとはとてもいえない。その逆ではないか、とも思えてくる。もちろん、彼女/彼らの作品に接したところで、なんら「答え」が与えられるわけでもない。ただ、歴史を通じて、同じような「状況」がくりかえし起こり、「問い」がたてられてきた、ということに思いを馳せることができるだけだ。なぜこれほど悲惨なことがわたしちに降りかかるのか、なぜこのような苦しみがわたしたちに課せられるのか――。有史以来、おそらく人間は、「悲惨」や「苦しみ」に対して、その「意味」を必死に考えてきたのだ。
 そして今、9・11をめぐって、さまざまな物語がひしめいている。アメリカの物語、パレスチナの物語、イスラエルの物語・・・。
 物事に対して理由を与えるということは、それを解釈し意味を与えることで、自分たちの内部の物語に回収することである。苦しかったこと、悲しかったことに意味を与えることで、それは意味ある「苦しみ」「悲しみ」となる(たとえば、かれらの死は無駄ではなかった、という語り方)。
 けれども、意味などけっして与えられない「苦しみ」がある。物語に回収などされえない「悲しみ」がある。それに触れた者ができることは、もはや〈祈り>でしかないのではないか?
 ヴェイユは、苦しみの理由はときあかすべきではない、という。ペルトの音楽も、けっして「癒し」と捉えるべきではない。
2001年のクリスマスに。そして、2001年をふりかえって。
(25.dez.01)

熱帯植物園と杉本博司の写真

 テイ・トウワのSweet Robots against the Machineの二枚目は、ジャングルの音だけを60分間流している。60分間しっかり聞きつづけるわけではないが、フェイクっぽいかんじであたしは好きだ。テイ・トウワの意図は知らないが、この好意的評価は、あたしが植物園、とくに熱帯植物コーナーが大好きだからにちがいない。
 所狭しと緑が繁茂し、暑いわけではないけれど空気が湿り気を帯びていて、録音された鳥のさえずりが聞こえてくる、あの熱帯植物園特有の空間。本物のジャングルとちがって、湿気も調節されているし、もちろん虫なんていない、まったくの人工的なミニチュアの世界である。植物園に入って、熱帯植物コーナーがなかったら金返せ!っていいたくなる。人工的につくられているんだけど、完全にかぎりなく近づいていく小宇宙と感じられるのが大事なのです。
 実はこの感覚に一番ぴったりするのが、杉本博司の写真だと思う。もうずいぶん前に、雑誌で彼の撮った写真を見て、一瞬で虜になってしまった。美術書や写真集をたくさん置いてある書店にいって彼の写真集を探したけど、手に入らず、写真集LANDSCAPEを注文して取り寄せた。
 そこには、劇場と海と動物の写真が収められていた。
 人のいない劇場で舞台は光り輝き、ミニチュアの動物は時を止めてガラスの目でまなざし、波をたてない海は静かに、ひたすら静かに、そこにあった。どの写真にも、時を止めた、硬質で無音の世界がひろがっていた。猿たちが木々の間を走り回っているかのような写真も、リアルでありながらどこか無機質で、生物特有の雰囲気を漂わせてない。あたしが愛してやまないあの熱帯植物園的世界とどこか通底している。というよりはむしろ、あたしにとっては、これが理想の人工的小宇宙なのではないかという気がする。
 はじめて見た杉本の写真は、この海の写真だった。モノトーンで海と空がちょうど写真のまんなかで分かれている。波と波が細かな襞をつくりながらも、すべての動きは静止している。写真の題材としてはありふれた海をこんな風に切り取る写真家の感性に驚いた。海が標本にされてしまったかのようだった。
(18.dez.01)

世界を言葉でとらえる、あるいは。

  ひとがどのように世界をみているのか、ちょっとだけでも体験できたらおもしろいだろうなと思う。自分が見ているようにしか世界はみえないから、世界を音楽で捉えている人や、数学で捉えている人や、色彩で捉えている人と知り合うと、なんでそんなふうに世界を見れるのか、とても不思議だから。
 あたしの場合は、世界に起こっていることを、頭の中では文字コードで変換している。つまり、何かに感動したり、刺激をうけたりすると、それを「言葉」に置き換えようとしている。
 自分から発する場合も「言葉」だし、自分が受け取る場合も「言葉」であることが多い。よく、疲れたときには、音楽を聴いたり好きな画集や写真をみたりすると、気分が安らいで癒されるといわれる。たしかにそういう効用があることは否定しないけど、あたしの場合は、たとえ音楽や画集を見ていたとしても、「言葉」を捜している。音楽なら歌詞だし、画集や写真も、言葉がつけられてあったり、あるいは自分の中で「言葉」に翻訳できるものが目にとまる。「言葉」によって、癒されていることが多い。だから、癒されたいときは、むしろ手っ取り早く、好きな本を読む。というより、文字に溺れる。
 それでも、こどもの頃はもう少し、リズムやメロディーや、絵そのものを見ていたように思う。だんだん自分には、音楽や芸術のセンスがないと分かってくるにつれて、ますます「言葉」のほうに特化してしまったみたいだ。そうすると、ますます、「ないものねだり」で音楽や芸術のセンスのあるひとに惹かれてしまう。世界を音や色彩や数字で捉えるということ自体が想像できないんだから、仕方がない。
 文章であれば、それを書いた人がどこまで深く物事を考えているか、どれほどのセンスがあるかが判断できるけど、音楽やアートに関しては、同じようには判断できないと思っている。自粛している。
 でもときどき、この好感が反対に転じて、うんざりすることがある。どうせあたしには分からない、という投げやりな気持ちになる。そうなると、CDをかけて音楽を聴くという行為自体がすごくイヤになる。今はどのジャンルであれ、アーティストの個性をださなくてはいけない時代だから、個性を競い合っているのはあたりまえなんだけど、特定のアーティストの名前のついた個性が、無性にうっとうしくなる。それがあたしに一体なんの関係があるの? あたしにとっては、あなたは生活を潤すひとつの手段でしかなくて、あなたが消えようが売れようがどうでもいい、と毒づいてしまう。椅子なんて適度に快適に座れたらいいんであって、「イームズの椅子」とか「バウハウスの椅子」とか、「○○の」の部分がウルサイ、て思ってしまう。・・・とげとげしい気分になっているときは、こんな状態。
 わたしの場合、音楽やアートでさえ、「言葉」で翻訳できるようになればいいんだけのことなんだけどね。
(01.11.21

猫とつかず離れず

 近所に猫がたくさんいる。
 家猫もいれば野良猫もいる。猫にもテリトリーがあるのか、たいてい同じエリアで同じ猫を見る。寄ってくるのもいれば、様子をうかがってさっと逃げてしまう臆病猫もいる。
 うちの家にも猫が来る。縁側の半透明の屋根のうえで、いつも寝ている子がいる。陽が照っていれば気持ちいいのか、寝息まで聞こえてきそうなくらい熟睡して、戸の開き閉めも慎重に、というかんじだ。雨がふるときは、軒下の小さな隙間で雨宿りしている。
 どの猫かわからないけど、ときどき、縁側に足跡をぺたぺたつけてくれる。うちは外にトイレがあるんだけど、どうもトイレの水を飲んでいるらしく、トイレにまで泥の足跡がついている。ヤラレタ、というかんじだが、こんな水のんでダイジョウブなの?と心配にもなる。
 夜中にねずみをおいかけて、うちの家の屋根裏を走り回っていたときもあった。ねずみが走ると天井がトテトテとゆれるから、あ、ねずみ!と分かるんだけど、猫が走ると天井がワッサワッサゆれる。底がぬけるからやめて〜!!とおもわず声をかけてしまうくらい、こっちも慌てる。こういうのがつづいて、ある日とうとうお風呂場の天井がぬけてしまった。トホホ。このときはつっかい棒で棚をつくるグッズをかってきて、それで天井をおさえて応急処置した。
 でも被害ばっかりでもなくて、縁側の窓ガラスに顔をぺたっとくっつけて、こっちを覗いているときもあったりする。これがかわいいのだ。めったにないけど、そういうときは、こっちが動くとびっくりするかもしれないから、じっと動かずに猫とにらめっこする。猫も意外と逃げない。
 あたりまえだけど、世の中には猫がイヤな人もいる。おばあちゃんは、猫をみると反射的に「しっしっ!」と追い払う人だった。ゴミをあさって散らかすから害虫といっしょだったみたい。ペットボトルの猫よけ水はもうめずらしくもなくなった。花壇におしっこされるのがいやなのは分かるけど、家の周りをそれで張り巡らしていたりするのは、はっきりいって、ひく。
 でもそんなのはまだかわいい。この前見たのは、塀の上にガラスの破片を接着剤で貼り付けてあるものだった。太陽に照らされて何かが光っているからなんだろう、と思ってみるとそれだった。サメの歯みたいな塀になっていた。こういうの作る人いるんだなーと思うと、ちょっとさぶかった。その人の心象風景がさぶそう。
(8.okt.01)

柘榴

 10月ももう明日でおわり。そろそろ視覚でも秋を感じるようになってきた。
 金木犀が満開で、あたり一面にあのむせかえるような匂いがただよっている。公園の藤棚の葉っぱは、風が吹くたびに盛大に落ちて、おもしろいように転がっていく。これから一ヶ月くらいかけて、銀杏の葉はきれいな黄色にかわっていくし、桜や他の木々も赤く色づいていく。お向かいの南天はすっかり赤い実をつけるようになった。
 それに、なんだか肌寒い。じっとしていると、足のほうから底冷えしてきそう。奥からひざかけを引っ張り出してくる。あったかい。そういえば、お布団もあったまると、ぬくぬくして気持ちがよくて、出るのがいやになるようになってきた。もっと寒くなるとほんとにでたくなくなるから、今くらいがちょうどいいんだな、きっと。
 スーパーにいくと、花梨と柘榴がこんもり盛られて売られてあった。果実酒にしてくださいということらしい。なるほどなるほど。果実酒にするんだ。柘榴って、どうも食べ方がよくわからない。あれは、実をちまちまと一粒ずつ食べていくのかしらん。
 柘榴はずっと、空想の食べ物だった。龍とか麒麟みたいなかんじで。小さい頃は見たことも食べたこともなかったし、鬼子母神伝説で柘榴をはじめて知ったから、人間の肉と血の味がする果物だと覚えこんだ。それって、食べてみたいような食べるのがこわいような、そういう謎にみちた果物だった。今でも、あのごつごつっとした赤黒い外観をみると、少し不気味に感じてしまう。不気味、といっても、そこにはエキゾチシズムと神聖さみたいなものもまじっている。
 実際に食べたことはあるんだけど、味のほうは覚えていない。これが人間の肉の味なのかなと思いつつ食べたんだけど、そういうことを考えていたせいか、現実の味のほうはさっぱり記憶に残っていない。だからいまだに空想のほうがまさっている。

ノンストップ・バス

 バスに乗った。
 別になんてことないふつうのバスだ。その駅からバスに乗るのははじめてだったから、どこにバス停があるのか探し回るのに四苦八苦した。日曜日のわりには、ちょっと待つだけでバスが来た。最初は街中を信号で止まったり走ったりしていた。そのうち、いつのまにかバスは快適に走り出した。信号もなく、渋滞でもなく、まっすぐ一直線に、目的地につくまでほぼノンストップで走っていった。窓からみえる景色も緑がどんどん増えていき、なんというか、とても爽快だった。太陽の塔がちらりと目に入る。いつ見ても、ヘンな顔だなー。
 バスに乗っていると、視線が高くなるから、乗用車に乗るよりも楽しい。こどものときの遠足を思い出す。バスにのって遠出するなんて、ぜんぜんなくなったなあ。でも大阪でも京都でも、ふつうバスに乗っていると、ちまちま走っては止まってまた走り出す、というかんじで、イケイケゴウゴウな路線などない、少なくともあたしは知らない。それに、京都ではバスをよく使うけど、大阪ではほとんど使わないし。今日みたいな路線は、まあ都市開発地域だからあるような路線なのだな。
 けっこうな距離を走ったようだけど、時計をみると10分ほどの走行だった。なあんだ。このままもっと乗っていたかったなあ、と惜しみつつ降車。もういちどあの爽快さを味わいたくて、帰りも20分ほど待ってバスに乗った。帰りも調子よく走ってくれた。待ち時間のほうが長かったんだけどね。
(14.okt.01)

秋の一日

 昨日は大阪城公園に行った。別にお城にのぼったわけではない。秋晴れの一日をのんびりしたくて、近場を適当なところを探して行って見ただけ。
 着くといきなり、人だかりとこどもの泣き声が聞こえる。どうもカラスがこどもを襲ったらしい。さきに人がちょっかい出したのかもしれないから一方的にカラスをせめるつもりはないけど、ちょうどカラスがこどもの頭を突っつくのを見てしまった。そのあと怒った数人の人がカラスに石を投げつけていたけど、カラスはフン!てかんじで逃げようともしなかった。すごい、たくましい、ふてぶてしい、ちょっとだけみならおう。
 お城の前の広場でまたしても抹茶ソフトクリームを発見。最近の観光地は抹茶ソフトクリームがはやっているのか? すっかり味をしめてしまったので、またまた買ってしまった。うーんおいしい。この渋い緑色がなにゆえにこんなにおいしいのだろうか。自分がこんなに抹茶好きとは知らなかったなあ。ハーゲンダッツの抹茶もおいしいよねえ。抹茶ソフトをたべながら、タイムカプセルを見る。100年ごとに開けていって、5000年間までつづけるらしい。1970年の万博のときのものだという。いや、気の長い話だわ。5000年もたったら万博も古代文明だねえ。まだ30年しかたってないんだねえ。
 その後、大阪ビジネスパークにあるIMPでマックカフェに入る。ただのマクドだった。だまされた。コーヒーが紙コップじゃなくなっただけやん! あのティラミスはティラミスと認めてやらんぞ、たとえ200円でも。反省しろマクド。カフェとかいうな。
 さらにその後、アジアン雑貨のchai poolで目を輝かせて買い物をする。ほしいものがいっぱい。バーゲン品だったけど、黄瀬戸の小さなお皿と黒と白の茶碗とカップを購入。お皿は和菓子用にするんだ〜。さらに水栽培用の花瓶とパキーラの苗?を購入。沖縄産のマザー・リーフという葉っぱからどんどこ葉っぱが生えてくるというのがほしかったんだけど、ちょっと家には地味かなーと思って、もちょっと主張しているパキーラにした。ほんとはマザー・リーフのその控えめなところに惹かれたんだけど。また今度出会ったときにはきっと買ってあげます。苔も売ってたんだよねえ。苔もいいなあ渋くて。どんどん苔が生えてくるのかな? なんか楽しげ〜。苔キレイ。ほかにもベトナム・コーヒーを作れるあの安っぽいアルミのコーヒーサーバー、たった300円で売っていたガラスのチャイ用のティカップ、きれいな赤い漆器、テーブルクロスによさげなベトナムの布、ぴかぴかした生地でつくってあったティコジー、あちこちの棚から買ってー買ってーて言ってるようで、ああみんな買ってあげたかったよー。ごめんねごめんねまたこんどね。
(09.okt.01)