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洗濯機とトカゲ

 川上弘美の『なんとなくな日々』を読み始める。けれども、いきなり川上ワールドが展開されていたので、エッセイを3、4本よんで、えいとばかりに本を閉じた。これは一気に読んではもったいないと判断したからだ。きゅうううう、という大きな鳴き声を冷蔵庫がたてているのを聞いて、「冷えつづけることもせんないものですよう」とでもいっているのか、などと書かれてあったら、もうもったいなくて次々読み飛ばせない。
 家電に名前をつけたり話し掛けたりするのは、けっこうみんなやっているのではないかと思う(コンピュータとかね)。あたしの場合は、洗濯機である。なんせ家が2DKとか3LDKという概念でははかれないくらい古いので、洗濯機を設置する場所などない。それで仕方なく、裏に放り出してある。直射日光を浴び、雨風にさらされ、夜露にぬれ、カバーをかぶせたりもしたが、あっという間にボロボロになって下の方に残骸をとどめているような、そんな過酷な環境に置かれている。
 よく考えれば、別に名前はつけていないのだが、ゴンゴロゴンゴロ回転している姿をみると、いとおしさを感じてしまう。もうすぐ変な音をさせて、永眠してしまうのではないかと不安になりながらも、瑕だらけの外装をなでながら、洗濯槽がゴンゴロ回るのをじっとみている。ふたをしないでいると、脱水できないんだけどぉってかんじでブーブー鳴る。たまには洗濯槽専用の洗剤できれいにしてやり、糸くず取りのネットが破れては糸で応急手当をしてやっている。
 蚊が飛んでくるのは考えものだけど、洗濯機を回しながら、鳥が木の枝に止まっていたり、トカゲがウロチョロしているのをじっと見ているのは楽しい。陽にあたると、トカゲはぴかぴか光るから、見飽きない。歩き方もユーモラスだし、おんなじところをぐるぐる行ったり来たりしていて、遊んでいるのかな、と思わせる。とくにしっぽは七色に光っていて、そんなに目立って大丈夫かいと心配になってくるぐらい。外に洗濯機を置いてあるからこそ、楽しめる時間ともいえるか。
(25.sep.di.2001)

ガルシア=マルケスの「聖女」

 朝夕の寒暖が激しいせいか、今朝は起きると咽喉を痛めていた。暖かい布団をだそう。今日は、トーハトの新商品のチョコクッキーと珈琲。もったり感がおいしい。
 図書館に行って借りていた本を返却する。読みきれなかったガルシア=マルケスの『十二の遍歴の物語』をもう一度借りる。他、同じくマルケスの『青い目の犬』、川上弘美の『なんとなくな日々』、中山可穂『深爪』、藤野千夜『夏の約束』を借りる。司書さんに、3年目の更新期間が来たから今度身分証明書持ってきて、といわれる。忘れそうだな。
 マルケスの『十二の遍歴』のなかに「聖女」という作品がある。この話、なんか知っていると考えていて、やっと思い出した。昔、千日前のミニシアター国名劇場で観た「ローマの奇跡」という映画の原作なんだ。この映画はすごく印象に残っている。南米のどっかの国が舞台で、サルのおもちゃで遊んでいた7歳くらいの女の子が突然死んでしまうんだ。父親が嘆きながら子供を埋葬するんだけど、何年かたって墓を開いたときに、娘がそのままの状態で棺のなかに横たわっているのが発見される。墓を開いたときに、一番最初に、娘の小さな足の裏が現れたのを見たとき、父親が半狂乱になって子供をかき寄せる。服は汚れ、髪や爪は伸びているけど、腐敗もせずに墓のなかで何年も眠っていた娘を抱いて、父親は「奇跡だ!」と叫ぶ。そのシーンが鮮やかによみがえってきた。
 映画も小説も、そのあと奇跡の認定を求めてはるばるバチカンにまで、聖女をつれていく父親の旅を、半ばコミカルに、半ば宗教的に描いている。映画の方では、女の子は奇跡の復活を遂げる。小説の方では、女の子は棺のなかで眠ったままらしい。どっちの終わり方もいいな、と思う。だって、マルケスの物語って、夢と現実の境界、生者と死者の境界、聖人と俗人の境界があいまいで、そこがなんとも魅力的だから。
  話はかわって、ただいまMach mal Pause?の体裁をどうするか、試行錯誤中である。tea diaryとエッセイの区別がつかなくなってきて、分けている意味ってあるのか。当面一本にまとめてみるか。
(20.sep.01)

水出し

 この夏は、水出し珈琲、水出し紅茶、水出し麦茶、水出し烏龍茶をひたすら作っていた。熱湯で煮出すよりダンゼン美味しいと、すっかりはまってしまった。
 ただ、水出し珈琲は最初に作ろうとしたもののせいか、よく失敗した。珈琲のメルマガで教えてもらったように、水280CC、珈琲20gの分量をはかってペットボトルに入れ、8時間ほど冷蔵庫でねかせるということをやっていたのだけど、8時間もほっておくと、苦味のほうが強くでて、おいしいと思えなかった。何度かチャレンジして、ちょっと色は薄めなんだけど、5時間があたしにとってはベストかな?というあたりで落ち着いた。これはいわゆる水出し珈琲の「すっきりとしたのどごし」が楽しめて、すごくうれしかった。
 珈琲に飽きるとそのあとは、お茶を全部水出しにした。別に水出し専用のお茶でもなんでもなく、ふつうの麦茶パックとか烏龍茶パックを水に入れるだけ。普段に飲む水は、うちは悪名高い大阪の水なので、湯冷ましを使っている。水出し珈琲にはペットボトルの水を使っていた。そのほうがおいしいかなと思って。
 水出しはすぐにはできないけど、烏龍茶がきれいな金色になったころには、煮出すものより香りもよく、烏龍茶ってこんなにおいしかったっけ?と思えるほどだった。もう夏も終わりなんだけど、まだ当分、冷たいお茶は必須なので、水出し作業は続いている。
(Sunday, September 02, 2001)

教会

 こどものころ住んでいたところは、やたら福音教会があってスウェーデン人の宣教師一家が近所に住んでいたりした。公園で遊んでいると若い白人のお兄さんが切手をあげるからといって、子どもたちを集めていたりもした。わたしも切手をもらい、そのあと何回か、寺子屋みたいなかんじで開かれていた英会話教室に行った覚えがある(今思えば、これはモルモン教徒の布教活動だったかもしれない)。それで、どういういきさつがあったのかはぜんぜん覚えていないのだけれど、いつしか近所のこどもたちと一緒に日曜学校に通うようになっていた。たぶん一年かそこらくらいしか通ってないと思うのだけれど、殊勝にも献金したり賛美歌を歌ったりお祈りしたりしていた。小学校二、三年生くらいのときのことだ。
 聖書のおはなしがイラストになったカードを毎回もらえて、それを専用のノートに貼りつけていく。こども向けに分かりやすくなってはいるんだろうけれど、聖書の話はなかなか物語的にもおもしろくて、今でもよく覚えている。クリスマスのときには景品で、かわいらしい男の子と犬の陶器のろうそく立てをもらった(でもそのあと、これを友達の誕生日プレゼントに使いまわしてしまった)。
 四年生のころにはもう教会に行かなくなっていた、と思う。いつのまにかその教会はただの空家になり、壊され、マンションになった。
(Thursday, April 26, 2001)

小さくてなにが悪い

 二度目に会った人とお久しぶりですーと挨拶。 次に返ってきた言葉が、「こんなに小ちゃかったですか?」だった。別にあれから縮んでないぞ。あたしってそんなに小さい?
 そういえばリモくんとイッポリートと話をしていたときも、最初は、アタマ小さいですよね、とかなんとか言われてて、必ずしも悪い気はしない物言いだったのが、いつのまにか
「kirynさんて小ちゃいですよね」
に変わっていた。それだけならまだしも、そのうち
「身長何センチなんですか」
「体重何キロなんですか」
「なんでそんなに小さいんですか」
というシツコイ質問に変わってきた。あのね、それって理由を尋ねられて答えられる質問だろーか?
 あたしってそんなに小さい?とねじこむと、リモくんの彼女が168センチあるらしい。それ平均的にもかなり高いほうでしょー。それがものさしなら、世間には小さい人多いじゃないよ。しかもムカツクことに、リモのやつがさいごに言い放ったのが
「ドイツいったら苦労しますよ」
だった。おまえなー。

ヴェネツィア

 ヴェネツィアは不思議な街だ。そんなに多くの街をみているわけではないけれど、この街ほど人を惹きつける街は知らない。
 最初に感じたのは、寂しさだった。他の街に比べて、ここには、住んでいる人たちの気配がなかった。サン・マルコ広場に向かう通りにもヴァッポレットにも、観光客しかいない。井戸のある路地のほうに目をむけても、女たちが立ち話をし子どもたちが遊ぶ姿など、見ることはなかった。まるで書割のなかに迷い込んだようで、自分の足元が覚束ないような気がした。 それから類まれな美しさ。サン・マルコ広場からサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会のある島を眺めると、青い海の上に浮かぶその白い姿も、夕闇に暗く浮かび上がる姿も、今まで見たこともない美しさで、ただ岸辺に立ち尽くすばかりだった。
 翌朝めざめたのは、教会の鐘が遠くから鳴り響く音によって、だった。窓から見える空はまだ薄赤く、ヴェネツィアの建物が暗いシルエットのなかにぼんやりと浮かんでいた。冬の朝でバルコニーに出ると、寒さに身が引き締まった。鐘の音はいっそう大きくなり、辺りには水の気配が立ち込めていた。 ただ、静かで儚げな印象だけではなく、この街には視覚的なダイナミックさもある。ヴァッポレットに乗ってカナル・グランデを下っていくと、両岸にぎっしりと並んだ建物が通り過ぎていく。ポンテ・リアルトをくぐる辺りから、川幅が広がり、目の前に一気に海が広がる。これは、おもわず歓声があがるほどの爽快さだった。
 今考えても、この街のすべてを知りたいとは思わないし、ここに住みたいとも思わない。ただ、また訪れてみたい。惹きつけられる。たぶん、この街には「秘密」がある。少なくとも、そう思わせるほどの力がある。軽妙なくせに底知れない
(Monday, April 02, 2001)

ハリボ

 ドイツに旅行していたリモくんが帰ってきて、みやげといって「ハリボ」なるものをもってきた。かわいくないこどもの絵がついたビニール袋から、おかしと推測できるのだが、みたこともない形態のブツである。黒い細いゴムみたいなものがぐるぐる渦巻に巻かれてあって、直径5センチくらいの円盤になっている。ちゅーとのばして食べると教えてもらったとおりに、ちゅーとのばして口にいれてみた。ゴムとコンブとのど飴と油を混ぜたような味。ウェーである。飲み込めなかった。袋にハリボが10個くらい入っていて1.95マルク(約100円)。値札つけたままもってくるなよ。安いみやげ〜。ウケをねらうのはいいけど口直しのフォローもほしいっての。
(Tuesday, March 27, 2001)

突然、ヴェネツィア?

 水道局の人がきて、水道料金の領収書を見せながら、メーターがあがりすぎているからお宅は水漏れの疑いがあるという。見るとマジすか!?ってなかんじの料金請求。いつもの4倍。しかも来月請求分のメーターはさらに膨れ上がっていて、いつもの8倍の請求がきそうな勢い。
 しかし、こんなになるまで気づかなかったくらい、どこに異常が発生しているのか分からない。昔、電気窃盗という裁判があったらしいが、水が窃盗されてたんじゃないのか? なにがなんだかわからないまま、非常事態なので水の元栓を閉めた。以来、汲み置きの水で生活している。
 あとで水道局の人がきて、畳をあげて水漏れの場所をみつけてくれた。どうも台所が水漏れしているようで、戦前から使っていたらしい鉛管が古すぎて破れているらしい。応急措置でなんとかなるレベルを超えているらしく、大規模な工事が必要だという。
 そういうわけで、うちの家の床下は今水浸しらしい。しかし、何にも知らずに生活している間に、床下ではどんどん水があふれていっていたのだなあ。そのうち沈むんじゃないのか。まるでうちだけヴェネツィアに建っているよう。
(Saturday, March 17, 2001)

天然招き猫

 煮魚定食でカレイの煮付けを食べる。身の半分が卵だった。しかも厚みが4、5cmはある。ごはんお代わり自由で2杯も食べてしまう。大根と薄揚げの煮物もしっかり味がついていて美味しかった。お昼の定食だから安くって、これでなんと600円也。おトク、おトク〜。
 店の前にはいつも猫が店番していて風流な店だと思っていたら、餌をもらおうとスキあらば店のなかに入ってこようとする野良ちゃんだった。店の人が、あ、また入ってきた!といっては冷蔵庫から余り物の食べ物をだして、すいませんねえといいながら外に誘導していく。わたしは猫好きなので、その猫が足元に擦り寄ってきたときはウレシクてツンツンつついてしまった。天然招き猫と名づけよう。
 そういえば、近所の喫茶店には飼い犬が店番しているところがあるんだけど、この犬がまた大きさ的にはビクターの犬サイズで、店の入り口のガラスにぺたっと張り付いているものだから、はっきりいって入れない。キミは商売のジャマをしとらんかね?
(Saturday, February 24, 2001)

節分祭

 近所に節分祭で有名なお寺があって、毎年この季節には大勢の人が御払いをしてもらいに訪れる。寺の周りから駅にいたる道には所狭しと屋台が並び、車も入らないように警察が通行規制する。朝から晩まで4日ほど続くので、にぎやかなことこの上もない。うっかりいつものくせで自転車に乗っていくと、人ごみにのまれて身動きできなくなってしまう。お寺のほうでは、山伏みたいな格好した人たちが、護摩をたいて何やらお経を唱えてはほら貝を吹いている。厄払いをしてもらう人が、山伏さんに勺で肩のあたりを叩いてもらう姿も見られる。狭い境内にびっくりするほど人があふれていて、いつもの数倍は広いお寺に見えるからふしぎだ。天気のいい日には我が物顔で歩いている鳩たちも、この期間だけは避難しているのか姿をみない。
 祭礼のあいだは、普段の町の姿がすっかり変わってしまうのがおもしろい。道は通行規制しているからいつもの道が使えなかったり、休耕している畑が緋毛氈をひいた一大食堂に早変わりしていたり、スーパーの入り口が屋台に覆われて申し訳程度に見えているだけだったり、八百屋なのにこの期間だけ厄除け饅頭を売る店に変わっていたりする(←まるでもともと和菓子屋みたいだったように饅頭を売るおばちゃんたちがおかしい)。駅近辺のお店はどこも満員御礼で、もう寺町みたいな状態である。ちょっと離れたところには消防車や警察の車が待機していて、なかに警官がぎっしり詰め込まれていたりして、びっくりさせられる。
 これだけ人が繰り出すのをみるとさぞかし効験あらかたなお寺なのかと思うが、なんせ近所にあるものだからいまいちありがたみがない。とりあえず厄除け饅頭と天津甘栗とベビーカステラを屋台で買って食べる。なんか最近食い気ばっかし…。
(Monday, February 05, 2001)