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靖国 YASUKUNI

2007年、日・中
監督:李纓


 この映画に描かれていた靖国をめぐるさまざまな声や感情のポリフォニーが、今の日本の一側面であることは間違いではないだろう。映像で見ると、さまざまな政治的パフォーマンスのその有象無象さと滑稽なまでの喧騒は、強烈なインパクトをもっていた。
 ただ、映画を見つづけているうちにわたし自身はとても冷めてしまって、自分は靖国にも象徴としての刀にも一片の感傷も愛着ももっていないのだなと思わざるをえなかった。靖国問題が心情的な同調や反発を引き起こしやすいテーマであることは分かってはいるし、映画もそうした側面を描いているのだろうけれど、問題の本質に切り込んだ作品といえるかどうかは微妙だと思った。
 映画のなかでも出てきたが、当時物議をかもした小泉前首相の靖国参拝も、20世紀末以降、とくに9・11事件以降のアメリカの世界戦略の軍事的再編成に唯々諾々と従った前首相の、国内向けパフォーマンスにすぎないとわたしは思っている。靖国が戦前日本の軍国主義の象徴的中枢であったとしても、戦前のような軍事的独立性をもたない戦後日本の現実においては、同じ機能を果たしているとは思えない。しいていうならば、ねじれた現実のなかで、ある種の人々のプライドを慰撫する装置であり、同時に排外的な扇動を誘発する装置といった役割だろうか。映画がこの政治的モニュメントの屈折した側面にまで切り込んでいるとは、あまり思えなかった。
 かといって、監督の中国人としての視点がどこまで反映されているのかも判然としないものがあった。刀匠と映画監督のあいだのディスコミュニケーションぶりは、恣意的な編集なのか、実際に延々そうだったのか知るよしもない。それが抑制が効いているとしてよかったとみるのか、不明瞭だと批判するのかは意見が分かれるところかもしれないが。
 余談になるが、映画は今年の四月ごろにとても話題になったものだから、見ておこうという友人にずっと誘われていて、先日やっと見に行く機会をえた。レディースディの映画館は女性客が圧倒的に多いのが普通だと思っていたけれど、この映画に関しては客層に年配の方々(60~70代)がとても多かった。幼少のころに戦後民主主義の洗礼を受けた世代なのか、それとも戦前の大日本帝国に愛着をもっている世代なのか? 年代的には前者のような気もするが、どっちなのかは分からない。この映画は世代によって感想がずいぶん異なるのだろうな、という気がした。
(12. jul. 2008)

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魔法にかけられて

2007年、米
監督:ケヴィン・リマ
出演:エイミー・アダムス
パトリック・デンプシー
ジェームス・マースデン


 ディズニーによるディズニーのパロディ。なかなかうまい出来映えでびっくりしました。コドモ向けかと思えば、意外とオトナ向け。しかもいちばんのターゲットは「人生こんなもんかとちょっとくたびれかけてきた中年男性」か? 
 さて、ディズニーのお姫様といえば、森の中に住んでて歌を歌えば森の動物たちが寄ってきて、服を作ってくれたり掃除を手伝ってくれたり、悪い魔法使いが出てきても絶対誰かが助けてくれる美少女。幸せな結婚をすることを信じて疑わないお姫様と白馬にのった王子様は、会った瞬間恋におちて、次の瞬間には結婚して幸せな一生を過ごしましたとさ、である。
 
 この超非現実的なおとぎ話の主人公たちが、そのまま現在のニューヨークにトリップしてしまう。純白のレースがふんだんについた可憐なお姫様が、いきなり帰宅ラッシュで超混雑しているニューヨークの街に飛ばされる。「お城はどこですか〜?」といいながら人込みにおされて地下鉄の階段下に消えていくお姫様。剣を片手にマンホールから飛び出してきては、「閉じ込められた哀れな村人たち」(=バスの乗客)を助けようと一悶着をひきおこす王子様。コスプレするのも場所と時間帯を考えろよみたいな、なんてメーワクな存在…。けっこうシュールなネタもたくさんあって、「みんなお掃除手伝って〜」とお姫様が窓から動物さんたちに呼びかけると、都会の動物さんたち(主に害獣・害虫系)がワーと集まってきたりもする(CGと分かっていてもドン引きした・・・でもお姫様は引かない!すごい!たくましい!)。笑えるシチェーションが満載で、見ていてずっと楽しめる。
 お姫様のノリを前にしては、「現実はそうもいかないんだよ・・・」とボヤくばかりの中年男性も、彼女のものすごいデトックス作用ですっかり発想をポジティヴに変えてしまう。お姫様というのは、どこにいても前向きな姿勢と優しさとを失わず、周りを幸せにすることのできる人なのですね(多少メイド・イン・USAが入っているけど)。エネルギー・チャージ系映画です。でも王子はアホすぎ。精神年齢5歳の男児だよアレじゃ。
(2008.apr.7)

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ジョゼと虎と魚たち

2003年、日
監督:犬童一心
出演:妻夫木聡
池脇千鶴
上野樹里


 この映画、すごくよかった。あんまりよかったので、田辺聖子の原作を買って読んだ。原作もよかった。映画はこの田辺原作の雰囲気をこわさずにうまく作られているなあと感心した。
 足の動かないジョゼは、古ぼけた長屋の片隅に年老いた「おばあ」と二人で住んでいる。映画のなかの、ジョゼの部屋がかわいらしい。気に入った写真を襖にはり、白いカーテンを窓にかざり、白い小さな鏡台に櫛やアクセサリーを飾り、赤い水玉模様のポットからお茶を飲む。「おばあ」がゴミ捨て場から拾ってくる本を山積みにし、押入れのなかに灯りをもちこんで、そこでジョゼはかたっぱしから本を読む。世間体を気にして、ジョゼを「壊れもん」として扱うおばあは、早朝の人気の少ない時刻に、ジョゼを古ぼけた乳母車にのせて「散歩」につれだす――「花」とか「猫」とかを見ないといけないから。海底にひっそりと住まう人魚姫のようなジョゼの世界はそれだけだった。
 ある日の散歩途中のトラブルがきっかけで、大学生の「恒夫」がジョゼたちの家にくるようになる。ジョゼはヘンな女の子で、大阪弁で小憎たらしい高飛車な物言いをする。恒夫は大学にいる周囲の女の子とはぜんぜん違うジョゼに最初は面食らうけれど、高飛車な物言いのなかにある繊細さやかわいらしさを感じとって、だんだん彼女に魅かれていく。それにジョゼの作る料理は、とてもおいしそう。恒夫はジョゼの作るごはんを食べにくる。それがぬかづけだったり、たまご焼きだったり、筑前煮だったり、とてもシンプルな料理。「また食べにきたで」「どあつかましい男や」といいながら、ジョゼは恒夫に料理を作る。あとで、ジョゼに恒夫をとられた元・彼女が「あんたの武器がうらやましいわ」とジョゼの足のことをあてこするけれど(ジョゼもきっちり言い返す)、「女の武器」という点では、「憐み」よりも「胃袋」をおさえたところにありそうだ。
 おばあが死んで一人ぼっちになったジョゼは、「ここに居って」と泣いて恒夫を引き止める。ジョゼに魅かれていた恒夫は、彼女といっしょに暮らしだす。好きな男ができたら、この世でいちばん怖い生き物=虎を見に行こうと思っていたというジョゼは、とてもいじらしい。はじめての旅行で場末のホテルに泊まる二人――海の生き物がホログラムで浮かび上がり、部屋中を回遊する映像をみながら、ジョゼは、自分が深い海底に戻ることは二度となく、恒夫が去った後には、乾いた貝殻になってカラカラ転がるだけの人生になることを予感している。でも、それもまたええわ、とひとりごちながら。
 最後、ジョゼと別れた恒夫は泣き崩れ、ジョゼは淡々と日常を生きる。一人であっても自分のために丁寧に食事を作る彼女の姿は、とてもよい。思うに、人のためにごはんを作るのもいいけれど、自分のことを思ってごはんを作ることは、心がすさんでも萎縮してもいないからこそ、できることなんだろう。だから、ジョゼの暗い予感をこめた独白にもかかわらず、彼女の未来は豊かな色彩を帯びたものになるのではないかと、祈りをこめて期待したくなるのだ。
 映画館でみたかったな、とちょっと残念に思っていたりする。
(13.nov.2007)

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トロイ

troy
2004年、米
監督:ウォルフガング・ペーターゼン
出演:ブラッド・ピット
エリック・バナ
ピーター・オトゥール


 ギリシア神話上の戦争とされるトロイア戦争を題材に、アキレスやヘクトールら古代ギリシアの神話的英雄たちが活躍する様が描かれる。小アジアを舞台にした古代の戦争シーンは迫力もすごくて見ごたえがあった。武装や武器や戦車や戦い方や埋葬の仕方が時代考証的に正しいのであれば、とりあえずいうことなしです。
 とはいえ、ハリウッド的脚色がかなり為されているので、ストーリーも登場人物の描き方もどことなくヘン。ハリウッド的に善悪をぱっきり分けて分かりやすい英雄譚にしたら、アキレスの扱いももうちょっと小マシになったんではないかとも思う。でも中途半端に原作に引きずられているのか、意気込みは感じるけど何がやりたかったのかよく分からなかった。それで、あまり話の内容について書く気が起こらないので、以下ただの感想に走ります。
 戦争の発端になったとされるスパルタ王妃ヘレンは、トロイ滅亡のきっかけとなる傾国の美女。ヘレン役のダイアン・クルーガーは、美しいのは美しいのですが、いかにもハリウッド・セレブなお顔立ちでエクササイズ・ビデオとかに出てきそうなかんじなのです。人妻の彼女と恋に落ちてトロイアに連れて帰ってしまうという、戦争の原因を作ってしまうパリス(オーランド・ブルーム)の方が、顔立ちがすっきりしていて美しかったりするんで、あんまり説得力ないのうという始まりだった。
 が、見ていくうちに、傾国の役はヘレンじゃなくてパリスだろ、と思えてきた。なんというか、パリスのヘタレっぷりと可愛らしさは、どう見てもヘレンを超えていた。パリスがヘレンの元夫メネラオスと名誉をかけての一騎打ちをするんだけど、ゴリラみたいな相手に全然歯がたたなくて、もう今にも殺されちゃうー!というときには、ヘレン、見てないでオマエが剣を取ってパリス守ったれよ!て思わずツッコミを入れてしまうほど。アンジェリーナ様ばりに城壁飛び越えてパリスを救いにいってほしかったです(ダイアン嬢もそういうのが似合うお顔立ちだと思うの)。
 でもパリスのヘタレっぷりはその上をいっていて、なんと剣を放り出して兄のヘクトールの足にすがり付いてしまうではないですか。兄ちゃんも兄ちゃんで、思わずメネラオスを刺し殺してしまい、、、ま、あんなにかわいい弟に子犬のようにすがりつかれたらしょうがないでしょう。パリスがヘタレのくせに「ぼく王子だからがんばる」って言うたびに、ヘレンは「また無理しちゃって〜」と胸キュンしてたんじゃないでしょうか。それに最後の最後でパリスくん大活躍するし、もうこの映画の真の主人公はパリスでOK。アキレス役のブラッド・ピットは色ボケしたチョイ悪オヤジみたいな役柄でさっぱりだったし(多分、神殿の巫女とのラブロマを無理やり入れたことがこの映画の失敗ね…)。
(06.jun.2007)

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パフューム

2006年、独・仏・西
監督:トム・ティクヴァ
出演:ベン・ウィショー
レイチェル・ハード=ウッド
アラン・リックマン


 小説を読む限りでは限界のある自分の想像力も、この映画は補ってあまりあるほど豊かに小説の世界を表現してくれた。18世紀半ばのパリの下町の活気ある様子、調合師の仕事に必要な道具、橋の上に密集する高層の建物(これが崩れるシーンもすごかった)、匂い立つような美少女たちの容姿など。 何より、最後に主人公が処刑されるはずの広場にぎっしりと人々が集まっている場面は圧巻だった。民衆や司教や裁判官や処刑人等々、この時代の公開処刑が都市の中心部(広場)で催されるエンターテイメント的な装置であることが伝わってきたし、何よりクライマックスの場面でもあるので、すごくおもしろかった。とにかく引用される知の豊かさに酔いしれることができる映像だった。
 映画と小説の違いとして一点気になったのが、映画では、自分が無臭の人間であることに気付いた主人公が、匂いを作り出すその類稀なる能力によって、「普通の人間」になろうと努力し、その果てにあの連続殺人につながっていくという部分が今ひとつ描ききれていなかったように思う点だ。
 人びとは無臭の人間である彼を忌避しつづけるが、奇蹟を起こす最高の香水を作り出すことで一転して彼にひれ伏する。しかし、最高の香水をもってしても、人々は彼自身を崇めたのではなく、彼の放つ香りの向こうに理想の何かを見つけてひれ伏しただけで、結局彼自身は相変わらず「空」な存在であり続ける。最高の香水ですら、彼にとっては無価値なものでしかない。−−小説を読んだときに感じたこの空虚さ・無意味さは、映像になると、主人公が最後にこぼす涙と追憶によって、どこか人間味や切なさを感じ取れる表現にも思えた。
(2007.03.11)

 ついでに。昔書いた書評の再録。
 もしも人間に体臭がなければどうなるか。あの人はいい感じの人だとか、いやな感じの人だと判断するとき、わたしたちは普通、その人の容貌や見栄えや服装などから判断しているのだろうか。
 
 パトリック・ジュースキント『香水――ある人殺しの物語――』(文藝春秋、1988年)は「無臭」の男の物語である。無臭の人間とはどういう意味か。ひとに認めてもらえない、それどころか、その存在そのものが人を落ち着かなくさせるために誰からも忌避されるということだ。だから男はずっと一人だった。孤独がなんなのかも分からないくらいに一人だった。
 無臭の男は、絶対的な嗅覚をもっていた。かれは匂いで世界を感じ取った。ありとあらゆる匂いを感じ取る嗅覚をもっていた。それで男は香水調合師になった。調合師になった男は、自在に匂いが作り出せた。匂いを操れるということは、つまり、なりたい人間になれるということだった。男は香水をつけることによって、人からどう見られるかどう思われるかを自在に操作できるようになった(だからこの本によると、あの人はいい感じの人だとか、あの人はいけすかない、とか普通わたしたちが視覚的に判断しているような事柄は、実はその人自身の発する匂いで判断していたということになる)。
 男は最高の香水を作りたいという欲望をもった。最高の香水は、絶世の美少女の体臭から作り出されなければならないと考えた。最高の香水を手に入れるために男は犯罪に手を染める。天才調合師の手によって作り出された香水の効き目は絶大だった。彼はいまやなろうと思えば、神にさえなれただろう。だがそうはなれなかった。
 
 一切の人間的なつながりをもたずに育った男が、香水によって、人々の好意や悪意を操作することで世界とのつながりをもとうとした。自分が操作するという形で、不器用におずおずと人間世界に入りこんでみた。だが関われば関わるほど、世界は憎しみの対象でしかありえないことが分かってくる。世界との距離を人工的に埋めようとして失敗した男は、世界に呑み込まれるように、この世ならぬ最期を迎える。いや、世界に存在することに倦怠した彼は、自らをその香水によって消滅させてしまうのだ。
 最後までこの男が何を考えているのかはよく分からないし、親近感を抱くのも難しい。だが、世界を鼻から知るという設定は奇抜で驚かされるし、読み物としての楽しさを十分に堪能できる作品である。

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エマ

emma
1996年 英
監督:ダグラス・マクグラス
出演:グウィネス・パルトロウ
トニ・コレット
アラン・カミング
ユアン・マクレガー
ジェレミー・ノーザム


 19世紀ロンドン郊外ハイベリーの美しい自然を舞台にした作品。何より、そこを歩くたおやかな女性たちが美しい。胸元から裾までまっすぐ伸びるドレープの美しいドレス、高く結い上げた髪、ほっそりとした首筋、無駄な装飾のないデコルテのラインなど、とても可憐である。こうした女性たちが、美しい調度品をそろえた室内に佇んだり、緑豊かな森の小道を散歩したり、畑でイチゴ摘みをしたりと、それはそれはロマンティックな風情が漂っている。おまけに話もうまい(さすがにJ・オースティンの原作がよいのだろう)。たいした事件がおきるわけでもないのに、人間心理の微妙なゆらぎがとてもうまく描かれていて、見飽きなかった。サロン的というのにふさわしい、品よくまとまった佳品というかんじだ。
 二十歳そこそこのエマは、身分が高く、容貌も整い、歌や絵画の腕もすばらしく、おまけに頭のキレも抜群で、結婚相手としては申し分のないお嬢さま。でも自分の結婚はそっちのけで、周囲の人物の縁組をするのが趣味という女の子。周りの人間を自分の思い通りに動かすべく策略練るのが三度の飯より好き!だなんて、けっこうタチの悪い趣味ではないかと思うし、エマみたいなタイプは正直苦手だけれども、まあそういうことは横においといて(グウィネスはハマり役ですね)。
 おもしろかったのは、19世紀の上流社会における「結婚」のもつ意味がよく出ていたこと。何より結婚は、当時の女性にとってはその後の人生を決める最重要事だった。このレールに乗れなかった人に対しては、周囲から品のよい哀れみの眼差しが注がれるという、かなりシビアな現実も描かれていたりする。
 さらに結婚とは、階級のバランスと人間性の双方を秤にかけて為される社会的行為に他ならないということもよく分かる。エマが友人のハリエットとエルトンのキューピッド役を勝手にやりはじめて、友人であるナイトリーに諫められるのも、階級や相性のバランスを欠いた縁組を勧めているという理由にあったりするからだ。
 全体的にお説教臭いといえばお説教臭いのだけれど、これは一種、女性向けのビルディング・ロマンだったのかなと思う。理想の結婚とは何か、賢い女性とはどのような人かというテーマを、エマという一人の女性を通して描いているともいえる。このテーマは、最後、エマとナイトリーの結婚で表現されている。
 彼女とナイトリーは「友人」同士として、耳に痛いことも時には相手に遠慮なく言う、そういう対等な関係にある。階級がつりあっているのは当然として、嫉妬や恋心も理性によって慎み深く抑え、最後はお互いの恋心を認め合っての結婚にいたる。階級のつりあいのみを重視した結婚でもなく、恋愛の情熱にかられただけの結婚でもなく、「分別」と「コモン・センス」を備えた人間同士の結婚が理想的な結婚なのだという、イギリス的な価値観を反映したものとなっている。そこに慎ましやかなロマンティック・ラブ・イデオロギーと女性の相対的な地位の上昇もこめられていて、「19世紀」「イギリス」の「女性」の価値観とはこのようなものだったのかと思わせられる作品だった。
(20.feb.2007)

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マリー・アントワネット

Marie-Antoinette
2006年、米
監督:ソフィア・コッポラ
出演:キルスティン・ダンスト
ジェイソン・シュワルツマン
リップ・トーン


 一言でいうと、思ったより毒がなかった、という感想になる。アントワネット視点で撮ることで一貫して、最後、彼女が誰もいなくなったヴェルサイユを眺めるというのはまあいいとして、え?ここで終わるの?という感は否めない。
 彼女が本質的には普通のお嬢様で、政治のイロハも分からずに大国フランスの王妃になった人物だと、『ベルばら』でもツヴァイクの『マリー・アントワネット』でもそんな風に描いていたと思う。だからコッポラが彼女のコケティッシュな魅力を前面に出す形で描いたのも、歴史的解釈としてはさほど無理はないと思う。
 ただ、いわば普通の女の子である彼女が、王朝外交のど真ん中に放り込まれ、栄華を一身に表現することを求められ、最期はギロチンで処刑される人生を送るという、天国から地獄へのその急降下ぶりが凄まじいのであって、ヴェルサイユを出てから以後の描写がひとつもなかったのが残念だった。そこを描かないアントワネットなんて、天真爛漫なのはいいけど、ヘタすりゃ空気読めないイタい人で終わってしまうって。せっかく前半生をパンクロックがかかるなかでファッショナブルかつガーリー・テイスト満載で気合を入れて撮っているのに、あれを晩年の彼女を描写するさいに、対比させるか追想させるかしてなんで使わないかったんだろう、もったいないな〜と思った。前半は挑発的に飛ばしているのに、後半しぼみすぎ・毒なさすぎ。
 それでも、しきたりとマナーに満ちた宮廷生活を描いたところなどは、とてもおもしろかった。王朝外交が後継ぎを産むことにどれだけ重点を置くものであるかもよく分かる(そういう意味では、王政というのはほんとに不安定な政治体制だわ)。映画の売りになっているファッションやスウィーツの目も眩むような鮮やかな色彩はまさに王朝絵巻というかんじ。赤・薄桃・青・黄・白・紫と場面を変えるごとにくるくる変わるドレスは見ているだけでうっとりする。フリルや花のついた帽子、風に揺れてゆっくり膨らむ絹のドレス、背中のほうにふんわりと垂れる首に巻いたスカーフ、口元を覆う扇子、高く結い上げた髪にさしこまれた羽、フリルとリボンをふんだんに使った靴――。
 映画をみて記憶に残るのも前半の豪奢な生活ぶりだったりするので、もういっそのこと、ここに集中してもっとラディカルな映画をつくってもよかったんでは? ルソー読ませて「自然回帰」しているようなトンチンカンなアントワネットなんか描かずに、「パンがないならケーキを食べればいいのに、ってンなことアタシが言うわけないじゃない(笑)」を地でいくようなキャラで通してほしかったかも。けっこう史実に忠実に撮ろうとしている分、なんかマジメで中途半端なんだよね・・・。ポスト・パンク、ニューロマ系の音楽選定が、キャラ設定とストーリーに合ってない・・・。ヴェルサイユ宮殿を借りて撮影したというのも、本物感を出すのには有益だけど、逆に歴史の重みとかフランス政府の圧力に負けて、いまいちハジけられなかった原因になっているのかもね。
(2007.feb.01)

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さらば美しき人

addio, fratello crudele
1971年 伊
監督:ジュゼッペ・パトローニ・グリッフィ
出演:シャーロット・ランプリング
オリヴァー・トビアス
ファビオ・テスティ


 16世紀イギリスの劇作家ジョン・フォードの原作を、グリッフィが残酷で美しい物語へと映像化した作品。美しい妹の心を自分のものにすること以外、一切の望みも救いもいらぬと豪語する兄ジョヴァンニ、兄の眼差しを正面から受け止め、兄に心を捧げた妹アンナベラ、兄の愛人となったことを知らずに彼女を妻に娶った夫ソランツォ――この三者の関係が軸になって、物語は進む。
 兄は、妹を奪った男に嫉妬し、夫は自分に心を開かない妻に苦しむ。妹は、兄への愛ゆえに夫を拒むが、次第に傲慢で美しい夫に惹かれていく――。
 空気まで湿り気を帯びたような水の描写や雪景色など、映像がとにかく美しい。真っ白な息を吐いて野を駈けていくアンナベラ、なびかぬ妻の姿を見つけては後を追うソランツォ、窓枠にもたれながら雪の積もった大地を眺めるジョヴァンニ――陽が優しく大地を照らしていても、冬の朝のように凍りついた空気が張りつめている。いつ崩れるか分からない危うい関係は、妹の心の揺らぎを感じ取った兄のまなざしが狂気を帯びるにしたがって、いっそうその緊張を高めていく。
 それぞれの胸のうちに秘められていた狂おしいほどのパトスは、三者の交わりのうちにその激しさを増し、最後は血と死の匂いに充満するおぞましくも嵐のような結末へと導かれていく。すべてが死の静寂に打ち沈む場面で、死体のまわりを徘徊する犬の姿は、不気味なまでに救いのない死を描写していた。
 ……あまり多くを語ることはない。ただその破滅的な美に耽溺したいがために、ときおり見なおしたくなる映画になりそうだ。
(05.jan.2007)

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キングダム・オブ・ヘブン

kingdom of heaven
2005年、米
監督:リドリー・スコット
出演:オーランド・ブルーム
エヴァ・グリーン
ジェレミー・アイアンズ


 第二回から第三回にかけての時期の十字軍を主題にとりあげ、ハリウッド的なエンターテイメント性を意識しつつも、史実的な正確さの追求と現代世界に対する政治的メッセージを織り込んだ作品に仕上がっている。
 主人公バリアンはフランスの田舎で鍛冶屋をしていたが、妻と子を亡くして生きる意味を見失っている。そこに突然「父」と名乗る騎士がやってきて、エルサレムに向かう十字軍に参加せよと説く。その後バリアンは成り行きで人を殺してしまう。自分は神に見放された罪深い人間だという思いに囚われ、エルサレムに行けば神は救ってくれるのかと父に尋ねるが、父は「行けば分かる」とだけ応える――物語の導入がラノベ並のイキナリな展開で、ラノベの主人公のごとく、バリアンもその隠れた能力を徐々に発揮してものすごいヒーローぶりを発揮する。
 こう書くといかにもハリウッド映画の「お約束」というかんじなのだが、主人公が陸路、海路をへてエルサレムに到着するあたりから、話が俄然おもしろくなってくる。12世紀頃のエルサレムの複雑な政治状況がしっかり描かれ、主人公もその政治に翻弄される一人の人間であることが見えてくるからだろう。
 当時のエルサレムはキリスト教の王が統治する時代であったが、国家自体は末期に至っていた。対してエルサレム奪還をねらうイスラム側にはあのサラディン(ハッサン・マスード)が登場していた。エルサレム王ボードゥアン4世はイスラム教徒との和平と共存を至上命題として掲げ、キリスト教徒内部の反感や不和を押さえ込んでいたが、その死期が近づいていたこともあって、テンプル騎士団を中心とした反イスラム勢力を封じ込めることができない。一度戦争になりかけたとき、王が身を挺してサラディンと直接交渉に臨み矛を収めさせる。しかし彼が死んだあと、次のエルサレム王ギー・ド・リュジニャンはイスラムとの戦争を始めてしまい、あっというまにサラディンに敗北を喫し、エルサレム陥落の扉を開いてしまう。
 主人公バリアンは、落城の危機にあるエルサレムで、民を守るためにサラディンの軍を迎え撃つべく準備を進めていた。映画のクライマックスのシーンは、このサラディンとバリアンという智将同士によるエルサレム攻防戦になる。
 専門的な軍事集団である騎士がほとんどいない状態で、バリアンはエルサレムの農民たちをにわかの騎士にしたてるために説得し、勇気を奮いたたせ、そのうえでイスラム軍を迎え撃つべく様々な軍事的工夫をこらしていた。多勢に無勢のなかで、皆殺しという最悪の結果を避け、住民の自由と安全を保障したうえでエルサレムを明け渡すことをサラディンに承諾させるという明確な目的をもっての陣頭指揮である。
 何より中世の戦争があますことなく映像化されていて、これだけでも見る価値がある。イスラム兵は巨大な投石器から繰り出す石で城壁をくだきながら、徐々に城壁に近づいて、橋を城壁にかけて城内に押し入ろうとする。その上にエルサレム側は、何万本と矢を放ち、城壁をのぼってくる敵兵に油を注いでは火を放つ。打ち砕かれた城壁のはざまで、両軍の歩兵たちが血みどろの白兵戦を繰り広げて激しい攻防を続ける。どれほどの人間の肉体が直接的に損傷されることで勝敗を決していたのか、とにかく圧巻の場面である。最後、サラディンを交渉の場をひきだしたバリアンは、のぞみどおり、住民の安全な脱出という条件を勝ち取る。残酷なシーンが続くけれども、同時に、戦う者が互いに敬意と礼節を守ることもまた重視されたことが分かる。
 バリアンにしろ、サラディンにしろ、多くの人間を翻弄して止まない「エルサレム」に関わることで、政治と宗教が激しく交錯する地点に立たされると同時に、それを俯瞰する視点をも持ち合わせている。人間は相変わらず「エルサレム」に翻弄され続けており、十字軍がはるか過去の出来事になった今でも、十字軍のイメージだけは敵対する陣営に都合のいいように利用されている。そうした昨今の事情を考えるならば、この映画がキリスト教・イスラムのどちらかに偏らずに製作を試みた姿勢は、評価されてよいものだと思う。
(01.nov.2006)
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シベリアの理髪師

the barber of siberia
1999年、仏・露・伊・チェコ
監督:ニキータ・ミハルコフ
出演:ジュリア・オーモンド
オレグ・メンシコフ
アレクセイ・ペトレンコ


 1885年、ある使命を帯びてロシアにやってくるアメリカ人女性ジェーンが、森を走る汽車のなかで、士官候補生トルストイと隣り合わせる。都会的に洗練された美しい彼女に、血気に逸る純粋なトルストイは夢中になる。でも彼女はある使命を遂行するためにロシア高官に取入るという「仕事」を受け持っていたから、彼の恋心を知ってはいてもおいそれとそれを受け入れるわけにはいかない。とはいえ彼を利用できるところは利用しようとするから、手練手管に長けたなかなか食えない女性だったりする。
 ちょっと悪女的な雰囲気を漂わせる女性と純粋な青年の恋物語を基軸に、ジェーンに惚れこんでしまうトルストイの上官ラドロフ将軍との三角関係や、トルストイに恋をしている女中との三角関係など、ジャンルとしてはメロドラマに入る映画である。でもこれがなかなかよく出来ている。1885年と1905年が交互に入れかわる時間軸の使い方、アメリカからシベリアまで視点を移動させる派手な構成、オペラの題材を盛り込んだ演出など、ずいぶん贅沢な作りになっている。それらに加えて登場人物たちの会話の掛け合いや間合いの取り方もすごくおもしろくて、思わず吹き出すようなコミカルな場面もたくさんある(とくにラドロフ将軍の可愛らしさとヘンテコ・ロシア人ぶりは必見! ジェーンが笑いをかみ殺しながらも、次の瞬間にはすました顔で将軍に媚びたり、もう色っぽいというか艶っぽいというか、手玉にとるとはこういうことかという感じです)。
 でもそれ以上に個人的に新鮮だったのは、この映画が19世紀末から20世紀初頭のロマノフ王朝時代のロシアを舞台に、ロシアの風習やロシア人のぶっ飛んだ感性をふんだんに盛り込んでいるあたりだった。だいたい、ソビエト的価値観なしに帝政ロシア時代を描いた作品なんて、ほとんどないのではなかろうか? 1905年のロシア革命以前の時代だから、街中で馬車が爆破されたりとテロが横行していた様子が描かれたりもするが、それよりも士官候補生たちの寄宿生活の様子や皇帝の閲兵式の様子を描くことに力が割かれていたりする。
 士官候補生たちがやっていることといえば、舞踏会用のダンスの練習だったりオペラの練習だったり(『フィガロの結婚』がここにからんでいる)決闘騒ぎを起こしたり、しょっちゅう悪戯をしては教官に怒られて罰として掃除させられたり片足立ちさせられたりと、そんなおバカで無邪気なことばかりである。学生生活をいやというほどエンジョイしている彼らは学び遊びつつ、実はロシア帝国のエリート集団として育てられている。彼らはこの生活を通じて、生涯続く人脈となるであろう仲間意識を育て上げ、なによりロシア帝国と皇帝に対する忠誠心を養っている。映画の中盤にでてくるロシア皇帝との閲兵式の様子は圧巻で、馬で登場する皇帝とその幼い息子に尊敬と敬愛の念をこめて、彼らは大声で「ウラー!」と叫び、親衛隊である自分たちの晴れ姿を披露するのだ。貴族的なエリート教育というのは、本来こういうものだったんだろうなあと思わせられる。官僚や法曹などの専門職業集団をつくるための教育システムではなく、あくまでも上級将校や政治的エリートを作り出すような教育システムなのだ。
 この皇帝を中心とした政治システムを破壊したのが二つのロシア革命ということになるが(17年革命はまだ先だけど)、映画ではクレムリンの外部で起きている不穏さは微塵も感じられない。もちろん映画のテーマから逸れるから描かれていないのだろうけれど、それでも、皇帝および士官候補生たちも含めたその周囲の人々は、自分たちを取りまいている社会の仕組みが壊れるとはこれっぽっちも思っていなかったのだろうなと思わせられた。そういう意味でこの映画は、ロシア帝国末期の様相を皇帝寄りの立場から描いたものとしても見れるだろうし、わたしにとっても興味深い内容だった。
(15.sep. 2006)

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