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マンダレイ

manderlay
2005年、丁抹・瑞典・蘭・仏・独・米
監督:ラース・フォン・トリアー
出演:ブライス・ダラス・ハワード
イザック・ド・バンコレ
ローレン・バコール


 『ドッグヴィル』を見たときにも思ったことだけど、今回の映画の内容も、何が「アメリカ的」なのかを把握するのに苦労した。もちろん、南部の黒人奴隷制というテーマはアメリカのものであるし、グレイスが体現するデモクラシーと啓蒙の精神への疑うことを許さない理想化はとてもアメリカ的ではある。とはいえ、デモクラシーが暴走する危険性は古代ギリシアから散々指摘されてきた話である。主人と奴隷の共生関係も、アリストテレスの家政管理論やヘーゲルの主人と奴隷の弁証法を思い出せば、別段衝撃的な話でもないし、まして「アメリカ」固有の話ではない。人間が平等ではないということを前提にした支配の論理は、古い歴史をもつ国々であれば大概会得してきた類の話ではあるだろうから。
 だとすると、トリアーはいかなるスタンスから、かくも悪意ある戯画を描けるのか? 彼にヨーロッパ人を代表させるのも極端ではあるが、これまた戯画的に言うならば、古い歴史をもち、人間は平等ではないという前提のもとに、人種理論を発展させ、アジア・アフリカを植民地支配し、ユダヤ民族の絶滅を遂行しようとした歴史と経験をもつヨーロッパであればこそ、アメリカン・デモクラシーの幼稚さを冷笑することもできるとでもいうわけだろうか?
 正直この映画は、グレイスに体現させたアメリカ的価値観の「本質」を暴露することに衝撃的な成功を収めているとは思えなかった。〈帝国〉アメリカは、シンプルで・誰にでも納得でき・希望を与えることのできる価値であるからこそ、デモクラシーと自由と人権を、多民族・多人種国家を統合する原理として採用しているのだから。その理念の影の部分やリアルな側面を暴露したところで、それがどうした?と今のアメリカならうそぶくだろう。これらの理念のもつ理想的な響きを利用しながら、国内統治と世界警察行動を展開している国なのだから。――こうした側面を逆説的に浮かび上がらせているという点では、「アメリカ」を描いているといえないこともないのかもしれないが。
(28.apr.2006)
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ブロークバック・マウンテン

brokeback mountain
2005年、米
監督:アン・リー
出演:ヒース・レジャー
ジェイク・ギレンホール
ミシェル・ウィリアムズ


 主人公のイニスとジャック、さらに彼らの周囲の人々の細かな心理描写が生きていて、ある愛の形を描いたものとしては見ごたえある出来栄えだったと思う(監督自身も、普遍的な愛をテーマに作りたかったとの趣旨を述べていた)。とくに、彼らに関わった女性たちの心理描写や些細な演技がなかなかうまかったので(カメラワークなども)、わたしは最初この映画は女性が撮ったものだとばかり思っていた(原作者が女性らしい)。ただ、ここで描かれているのも一つの愛の形だといわれたら、別にそのことを否定はしないまでも、何かオブラートに包まれて気がして落ち着かない。
 カウボーイの荒々しい男気が賞賛される社会で生れ育ち、そのハビトゥスを身に着けることは、男が男に惹かれるのは女々しく嘲笑に値することだという価値観を学ぶことでもある。強烈なホモフォビアが支配している社会では、「女々しい男」は文字通り直接的な暴力の標的ともなりうる。ある人たちにとっては、それがどれほど残酷なものとなりうるか――この痛々しさがどうしても胸につかえて、わたしは「一つの愛の形」という(多分)メインストーリーに、どこか入り込めないままだ。それは分かるけれど、でもそんなに物分りよく主張できない、というかんじなのだ。
 イニスは幼い頃、父によって、「男同士で牧場を経営している胡散臭い男」の虐殺死体を教訓として見せられた。この経験は、イニスをずっと縛り続ける。彼に比べると、ジャックはまだ、自分の気持ちを素直に表現することができる。それは彼の両親が、息子の性志向をうすうす知っていながらも、彼に愛情を注ぎつづけたからかもしれない(隠すことがヘタだったことが、逆に彼の命取りになってしまうのだが)。
 素直なジャックに対してイニスは、暴力の恐怖に裏打ちされた「規範」とジャックを求める自分の気持ちに引き裂かれて、決定的な行動に出ることができない。密会を重ねてもジャックの希望をかなえることはできないし、妻が絶望していることにも気づかないし、好意を寄せてくれる女友達にも「何を考えているのか判らない」と泣かれてしまう。ジャックと出会ったことは、生きることに意味を与えてくれることでもあっただろうが、同時に苦しみを抱え続けることでもあったのだろう。もがき続けるその不器用さ、どうにもならない恋と寄り添っていくその生き様に胸を衝かれる思いがする。
 イニスもジャックも、もっと幸福であってよかったのに、ダブルバインドに引き裂かれる人生を強いられることはなかったのに、という苦々しい思いや悔しさの入り混じった感情が後に残った。
(19.apr.2006)
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ユリイカ

eureka
2000年、日
監督:青山真治
出演:役所広司
宮崎あおい
宮崎将


 ときどき、もしわたしが何かの事件の被害者であり生存者であるとしたら、この映画を見続けることはできるか、と問わざるをえないような作品に出会う。「ユリイカ」はそうした自問を抱かせる映画の一つであり、見るに耐えうる数少ない映画の一つだった。ずいぶん長い話だったように思うが、長さが気にならないほど時間は淡々と過ぎていった。
 バス運転手の沢井(役所広司)と二人の兄妹・直樹と梢は(宮崎将・宮崎あおい)、ある日バス・ジャックに遭遇し九死に一生を得る。兄妹の目の前で犯人(利重剛)は次々と乗客を殺し、最後は刑事(松重豊)に射殺された。三人にとってその出来事は、過去から未来へとあたりまえのように続いていくはずの日々を凍結させる瞬間だった。兄妹は両親から見捨てられ、学校に行くことをやめ、言葉を失った。沢井も自分の住んでいた町から離れ、逃げていった。
 かつてハンナ・アレントは、「暴力それ自身は言葉を発する能力をもた」ず、「暴力が絶対的に支配するところでは、〔……〕すべての物、すべての人間が沈黙せざるをえない」と述べた(『革命について』)。わたしたちは、社会的存在であるかぎりにおいて、言語の能力を与えられている。それはもっとも原初的な相互承認の手段であり、また、出来事に意味を与える方法である――少なくとも、意味付けという行為は、わたしたちの生にとって、不条理で無意味で残酷な現実と折り合っていくために必要な営みであるから。そしておそらく、言語が曲がりなりにも機能しうる社会空間と、言語が沈黙する絶対的な暴力状態の間は、断絶といっていいほどに懸け離れている。その間をつなぐ回路はあるのか、あるとすればどのような形でありうるものなのか――映画はこの荒野を描写しようとしていた。
 兄妹がたった二人で暮らしているのを町の人間はみな知っている。けれどもその子たちが自分たちと同じ世界に生きていないことも、みな知っている。言葉が介在しえないところに佇む子どもたちに近寄っていったのは、かつて同じ暴力に直面した沢井だった(もう一人、明彦(斉藤陽一郎)という、かつて九死に一生を得る体験をしたという大学生が登場して同居生活に入る。だが彼は、子どもたちのところに沢井のように近寄っていくことはできなかった)。沢井はあるとき別れた妻に、「他人のためだけに生きることはできるやろうか」と問いかける。それは、もう心に決めていることを確認し、誰かに背中を押してもらうためだけに発せられた言葉だったように思う。
 彼は、もう一度子どもたちをバスにのせ、凶行のあった場所から旅を始めようとする。旅のさなか、子どもたちは言葉を再び発する。殺人を犯した兄は「なんで人を殺したらいかんのか」と、沢井に向かって苦しげに声を絞り出した。妹は、海で拾った貝殻を自分に関係する人々になぞらえ、その人々の名を呼びながら、絶壁の上から一つづつ投げ捨てた。映画は、この子の名前を呼んだ沢井のもとに彼女が駆け寄ってくるところで終わる。
 見終わって、何かカタルシスをえるわけではない。カタルシスというには、あまりに微細な感情なのだ。暴力は一瞬であり、苦しみは永遠とまごうほどに続いていく。人間同士をつなげているものは脆く壊れやすく、それを修復するのはいかに難しいことか。それでも兄妹がふたたび言葉を発した瞬間は、たとえそれが絶望的に哀しい状況であったとしても、他者とつながる回路が現われ出た瞬間であり、修復がなされつつあることを予感させる瞬間だったのではないか。
(10.mär.2006)
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イエスタディ、ワンスモア

yesterday once more
龍鳳鬥
2004年、香港
監督:ジョニー・トー
出演:アンディ・ラウ
サミー・チェン
ジェニー・フー


 とにかく何にも考えずに、ひたすら甘い映画が観たいと思って観にいった。そこそこ甘くて、しかも飽きさせない作りのおもしろい映画だった。原題の「龍鳳鬥」は「王者同士の頭脳合戦」という意味だそうだ。推して知るべし。しかし、「鬥」の字が読めないぞ。
 アンディ・ラウとサミー・チェン演じる超セレヴなトゥ夫妻は、盗みが趣味という点で、同士でありライバルでもある関係。トゥ氏は、妻が本当にすきなのは夫なのか宝石なのかを知ろうと試み、妻もまた夫が何を考えているのか探ろうとする。お互いなかなか本心は明かさないので、ひたすら駆け引きの連続。何かを聞き出すときは、かならず賭けをやって勝った上でという条件がつく。トランプ、競馬、ドッグレースと、とにかくしょっちゅう賭けをしている。スリリングな駆け引きを本気で楽しむことができる相手はそうそう見つかるものでもなく、騙し騙されする駆け引きという行為そのものに、共依存的な関係が成り立っている。平たくいえば、一人でいるより二人でいるほうが数倍楽しいの!というのを延々見せられるというか……何か書こうと思っても、実際のところ、ルパン三世と不二子ちゃんの実写版という感想しか出てこなかったりします。
(31. jan.2006)

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神に選ばれし無敵の男

invincible
2001年 独・英
監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
出演:ヨウコ・アホラ
ティム・ロス
アンナ・ゴウラリ


 この映画は最初から最後まで、いいしれぬ不安と破滅への予感に満ちている。
 1932年――ナチスが帝国議会選挙で多得票を獲得し、ドイツ国内での存在感を高めつつあったころ、ひいては、ヒトラーが33年1月に政権を掌握する直前というのが、設定された時代状況である。
 三人の主要な人物がでてくる。一人は謎めいた予言者ハヌッセン(ティム・ロス)。ポーランドのゲットーで鍛冶屋の息子として生きる、やさしさと力をあわせもつジシェ(ヨウコ・アホラ)。それから、ハヌッセンに幼少のころ拾われたという無国籍者のピアニスト、マルタ(アンナ・ゴウラリ)。
 原題のinvincibleは辞書的に直訳すれば「無敵」となるが、これはもっと含意をもつタイトルだと思う。むしろ、不安や混迷や混乱や破局に対して、「迷わざる者」「迷いなき者」「揺ぎなき者」「揺るがざる者」「確信者」といったニュアンスでとるべきではないか。「無敵」と訳すと映画の筋といまひとつ合わない気がする。
 ハヌッセンとジシェは、両者ともその意味でinvincibleな男である。ハヌッセンは、皆が見ることのできない賽の裏の目を見ることができる。自分の生れ落ちた時代・与えられた属性が、この時代のなかでどのような運命をたどらざるをえないかをはっきりと見据えていた彼は、ナチス政権に取り入ることで自分の運命を打開しようとする。ハヌッセンは、この時代の、ロシアまでも含むヨーロッパに生きたある種のユダヤ人に特有の性質をもつ。彼はユダヤの共同体から逸脱し、マジョリティの共同体からは排除され、根無し草的かつコスモポリタンな性質を帯びざるをえなかった人々の一員である。
 それから、ジシェ。自分に与えられた人並み外れた強さを、神は何のために与えたのかと彼は自問しつづけている。ユダヤ共同体の強い絆のなかで生れ育ち、何が正しいかを知っている「義しき者」たる彼は、ハヌッセンとマルタと出会うなかで、自らの使命を悟っていく。ユダヤ民族を襲う未曾有の悲劇を予見した彼は、その悲劇から自分の仲間を守ることが自分の使命だと確信している。その確信はinvincibleなものでありながら、人々にそれを伝えることは難しく、彼の力は空回りして、ついには自らを傷つけてしまう。
 マルタは、不思議な女性だ。豊穣な豊かさを秘めた肉体と類稀なピアノの才能をもちながら、両親も知らなければ自分が何人かもしらない見捨てられた存在であり、見るからに不安げな眼差しをこちらに向けてくる。ハヌッセンもジシェも彼女に惹かれている。思うに彼女は一つの時代の象徴という面をもちあわせていたのではないか。ハヌッセンが彼女を支配し服従させたのは、自分が時代を支配することと同義だったように思うし、ジシェが彼女の才能を鼓舞し、その夢を実現させようとするのは、自分の力が沈黙を余儀なくされ見捨てられた者たちを救うためにあると信じたことの結果だったように思う。
 最後、ジシェの夢。海岸を埋め尽くす真っ赤な蟹の大群のなかを、ジシェは、もっともかわいがっいてた弟ベンジャミンを抱き上げながら歩いていく。彼が守りたかったベンジャミンは最後、ジシェの手を離れて空へと飛んでいく。寓話的な終わり方ではあるが、どうしようもなく、暗い予兆をはらんでいた。
 invincibleな者を描きながらも、映画にはぬぐいがたい不安感が通底している。先が見えているのであれば、自分だけは時代に飲み込まれないよう常に先取りして出し抜いて生きていくか、それとも、後に残る大勢の人々に向き合って、流れに抗するよう声を張り上げるか。それぞれの流儀で流れに抗する姿と、それでも時代の波に飲み込まれていく姿――この両義的な側面が、尋常ならざる主人公たちのその平穏ではない人生によって浮き彫りにされていた。
(02.jan.2006)
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チャーリーとチョコレート工場

charlie and the chocolate factory
2005年 英・米
監督:ティム・バートン
出演:ジョニー・デップ
フレディ・ハイモア
ヘレナ・ボナム=カーター


 ティム・バートンの映画はすごくおもしろいんだけど、オタク度の高さに少々呆れるというのが、いつもの感想。今回もまさにそうで、すごく貧乏だけど素直でいい子な少年チャーリーを主人公に、一見子ども向けのエンターテイメントに見えるんだけど、これがまたハリポタとかとはぜんぜん違う。マトモに思えるものを中心に置きつつ、すぐに綻び始めて過剰でシュールなものがボンボン飛び出してくる。凝りすぎ、やり過ぎ、そこまでやらんでも、というのが延々続く。
 まず、すっごく貧乏なチャーリーの家は思いっきり傾いていて、そんな傾いている家はないだろうと笑える。チョコレート工場がまるでロシア・アヴァンギャルドの建築物みたいにかっこいい。かっこよすぎる。フリッツ・ラングですか。ガラスのエレベータの軌道ラインも単に直線ではなくてスウィングさせて作っているし(細か!)、くるみ割りのリスもわざわざ特訓したらしいし、ウンパ・ルンパ族のダンスシーンは音楽ジャンルごとに振付けられていて、もうそんなとこまで凝らんでも〜。子どもたちがまた小憎たらしいのばかりだし、ウィリー・ウォンカはマイケル・ジャクソンにかぶるし、とにかくヘンな映画! ウォンカのチョコレートで「2001年」をやってくれたところはウケました。たしかにチョコレートは黒い板だわ。
 ところでウォンカ・チョコは美味なのだろうか? チョコ好きなわたしとしては、あのチョコレート工場の内部をみたあとでは、ちょっと疑問に思う点だったりして。かなり妙チクリンなものが入ってそうだよね。
(16.nov.2005)
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ライフ・イズ・ミラクル

life is a miracle
2004年、仏・セルビア=モンテネグロ
監督:エミール・クストリツァ
出演:スラヴコ・スティマチ
ナターシャ・ソラック
ヴク・コスティッチ


 これまで見たクストリッツァの映画(「アンダーグラウンド」と「パパは、出張中!」の二本しか見てないけど)では、とってもエネルギッシュでタダではコケない図太いオジサンが主役を張っていた。政治の裏や闇の世界にも鼻が利く泥臭い男たちが、一筋縄ではいかない現実に翻弄されていく映画だった。今回の映画の主人公はそういうタイプの男ではない。どちらかというと、一本気で我慢強く、そしてロマンチックなタイプの中年男性が主人公である。そうした人間を主人公に据えただけあって、映画の内容もクストリッツァの過剰なまでのイマジネーションが弾けたものとなっている。
 「アンダーグラウンド」で猿を連れた吃音の青年を演じていたスラヴコ・スティマチは、今回は有能な鉄道技師で、家族思いの父親ルカを演じている。1990年代初頭のボスニア・ヘルツェゴビナが舞台で、全国に鉄道を張り巡らす計画は国家分裂の危機にあってか、ずっと滞ったまま。ルカはベイオグラードに程近い山奥の駅舎に妻と息子とともに移り住み、そこで鉄道敷設の仕事に関わっている。息子ミロシュはプロのサッカー選手志望、妻はアレルギー体質のオペラ歌手。念願かなって、ミロシュはプロ選手への道が開かれることになる。でもセルビア人とクロアチア人・ムスリム人との戦争が始まり、ミロシュは徴兵、しかも捕虜になるという最悪の事態を迎える。ルカは、捕虜として捕まえられたムスリム人女性サバーハを、ミロシュとの捕虜交換員として監視することになる。そして二人は恋に落ちてしまう、というのがあらすじ。
 ユーゴ内戦を扱いながらも、一応の和平を経たあとに作られている映画だから、クストリッツァ自身の内戦への総括のようなものが随所に見られたように思う。ある将校が、「自分たちの戦いではない。誰かのための戦いだ」というセリフを吐くのが印象的だったし、西側メディアへの苛立ちも顕著だった。
 なにより、ルカが敵側の人間となったサバーハと恋に落ちてしまう設定が目をひいた。民族憎悪を煽り、民族浄化にまで至った内戦の記憶を思えば、セルビア人男性とムスリム人女性が恋に落ちるという出来事は、素朴ながらも切ないものに思えた。そしてそれは、いつかは別れるものであったとしても、「ビフォア・ザ・レイン」の恋人たちよりも幸福感に満ちた恋愛に描かれている。実際のところ、この地域の映画には、幸福感を感じさせてくれる作品はすごく少ない。現実の重さが映画のなかにも圧し掛かってこざるをえなかったのだろう。それだけに、言葉が十分に通じるわけではない二人がたどたどしく会話をする姿には、胸が温かくなる気がした。
 とにかく、今回の映画は深刻に悲劇的なものとはなっていない。ひっきりなしにクスクス笑ってしまうのだが、それは動物がたくさん出てくるところに負っているのだと思う。いつも画面に出てくる犬や猫や鶏たちが何かと予測不可能な動きをしては、人間たちの悲喜こもごもな感情を波立てる。難民化したクマが暴れているというのも笑えるし、なにより、失恋の痛手から鉄道自殺を図ろうとするロバがおかしい。最初と最後をきっちり締めてくれるのが、このロバだったりして、実はすごい大役を負っているのだ。
 今回の映画のlife is a miracleというタイトルは、人生何が起こるか分からないけど、それはそれで受け止めていこうよ、といった希望がこめられたタイトルなんだと思った。
 あと一点書いておくと、トンネルが象徴的に使われていたのがおもしろかった。生と死を分かつ分岐点のような役割、とでも言おうか。トンネルのなかで息子と友人たちが酔っ払ってロシアン・ルーレット紛いの遊びをしたり、麻薬の密売人がえげつない最期を迎えるのもトンネルのなかだった。あと、サバーハとルカが逃避行をするさいにもトンネルを越えて行くし、最後にルカが自分の居場所に戻っていくときも、ロバに乗ってトンネルのなかに消えていくという具合。トンネルは、クストリッツア流のワンダーランドに必須の道具立てというところでしょうか。
(12.sep.2005)
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ヒトラー、最後の12日間

Der Untergang
2004年、独
監督:オリバー・ヒルシュビーゲル
出演:ブルーノ・ガンツ
アレクサンドラ・マリア・ララ
コリンナ・ハルフォーフ


 第三帝国の終焉をヒトラーを中心に描いた作品。昨年ドイツで公開されて、かなりの動員数を記録したと聞いて、日本で公開されたらぜったい観にいこうと思っていた。
 1945年4月下旬、ソ連軍の砲弾を至近距離で浴びせられ、瓦礫の山と化していく陥落寸前のベルリン。被弾するつど映画館も地鳴りし、物語りが進む間も背後で爆音が響き続けることに、最初、不安な気分にさらされた。ただ、1時間も見ていくと、次第にそうした状況にも身体が慣れていくのが分かった。もちろん、映像と音声だけの体験だから、慣れといっても映画的な慣れでしかない。現実はそんなものではないのだろうと思いたいけれど、たとえ現実であったとしても、人間は異様な状態に慣れていくものかもしれない。慣れというより麻痺に近い。どれほど悲惨で醜悪で異様な事態であっても、それが長引けば、最初のショック状態からなんとか回復して、思考回路を閉ざして、生き延びるために身体は勝手に現状に適応しようとするのだろう。
 映画では、司令部にいる人間の思考回路の麻痺と状況打開不可能なまでの硬直性が描かれる。権力者の気宇壮大な妄想が決断の根拠になるため、司令部からは実行不可能な命令が下されるばかりで、指令系統は事実上崩壊している。何一つ状況は打開せず、無駄に死者の数を増やすだけという目を覆いたくなるような状況が露呈する。冷静にやるべきことをやろうとする軍人たちが出てくるにせよ、SSは赤狩りと称して民間人をリンチ殺害していくし、司令部にいる人間は乱痴気騒ぎやアルコールに浸っているし、その間も容赦なく爆弾は人間を殺していく。もはや手の施しようのない現状とおそるべき精神の荒廃状況とが、被弾音の地響きのなかで描かれる。
 この映画の「人間ヒトラーを描いた」という振れ込みも、あまり好意的に表面的に受け取るべきではないと思う(ヒトラーの「人間臭さ」なるものは、描くことがタブーだったかもしれないが、描くこと自体は難しいことではないだろう。その先に何を読み取るか、が問題だと思う)。映画界では悪の記号として、ときには戯画化された形でしかナチズムは扱われてこなかった。その点、この映画は単なる「悪の記号」ではないナチズムを描いている。何を読み取るかは人それぞれ多様であろうが、わたし自身は、滑稽で滅茶苦茶で悪夢的な状況に翻弄される個々の人間たちが、その状況のなかで思考回路も精神も麻痺させて生き延びることはできても、「目を開く」ことはいかに難しいことであるかという問いが突きつけられているように思った。
 実在の人物だという主人公の秘書ユンゲの「純粋さ」、もしくは思考回路の凍結状態はとてもリアルだ。最後に年老いたユンゲ自身がでてきて、次のように告白する。ナチスがユダヤ人に対してやったことを聞いて慄然とした、でもわたしは長い間、ヒトラーの秘書だった自分とその出来事を結び付けることができなかった、と(重要な場面だと思うのだが、「付け足し」感が強く、映画の内容とリンクしきれていないのが残念)。一人一人の人間は誠実で、忠誠心も高く、それなりの良心ももつ普通の人間で、悪魔や野獣のような存在であるわけではない。ただ、自分自身の人生の軌跡と、組織的な殺戮も含めての大量の人間の死という事実を、直接の被害者ではない大半の人間は重ね合わせることができない。自分の責任として引き受けることができない。いやむしろそれ以前に、理解できない。ユンゲのように。そしてわたし自身も含めて、大半の人間がそうなのだと思う。
 派手な作りである分衝撃的な印象はあるが、見る人によって評価が分散するだろうし、けっして分かりやすい映画ではない。骨太な作りではあるが、やりきれない思いが残る作品でもあった。
(7.aug.2005)
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家宝

o principio da incerteza
2002年 葡・仏
監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
出演:レオノール・バルダック
レオノール・シルヴェイラ
リカルド・トレパ


 オリヴェイラの映画、三本目。この監督の映画は観れば観るほど嵌まり込んでいく気がする。決して派手ではない、抑制が効いた作風には職人芸的な安定感があるし、何より構成や構図の巧さには舌を巻く。
 今回の映画は構成の巧さがひときわ際立っている。オリヴェイラお得意の二項対立を複数設定しているのが基本構成なのだけれど、これら対立項のフォーメーションを展開させることで、物語を進めていくのだ。力量のある監督が采配したサッカーの試合や、数式で証明問題を解いていくような美しさがある。しかも物語は物語として十分見ごたえのある内容をもつので、とにかく堪能の一品。室内装飾の重厚な暗さと窓から入るポルトガルの陽光の明るさが、画面を引き締めているし、ポルトガル語の響きがまた美しい。パガニーニの音楽が、場面場面で効果的に使われているのもいい。ワインが飲みたくなること必至である。ブドウ畑も映し出されることだしね。
 さて、ここに出てくる二項対立を挙げていくと切りがないので(複雑に人間関係が展開していくからいくつでも作れてしまう)、少しだけ取り上げることにする。
 なによりも、主人公カミーラ(レオノール・バルダック)と女中セルサ(イザベル・ルト)の対比が興味深い。カミーラの守護神がジャンヌ・ダルクで、セルサの守護神が聖母マリアというのもそれぞれの役柄を象徴していておもしろい。セルサの行動とその胸の奥にしまいこんだ秘密は「母」がキィワードになるものだった。カミーラはもっと複雑で、作中でジャンヌ・ダルクが「二面性をもつ女」と捉えられているように、彼女自身も複雑な二面性をもつ存在として描かれている。可憐な容貌をもつカミーラは、周囲の人間からは不幸な結婚に耐えるかわいそうな女性という評価がなされているが、彼女自身は必ずしも自分をそうとはみなしていない(「わたしは汚い人間だ」と述べるように)。実際映画を観る者には、彼女が冷静な分析力と決断力と備え、ときには冷酷でさえある一面をもつ女性であることも知らされる。カミーラとセルサは根本的に対立する関係にありながら、自らの欲望を貫徹する意志の強さと頭のよさをもち、さらには秘密を抱え込んだ者として、似た者同士でもある。犯罪を犯しても、絶対に人に洩らさず、良心の呵責にすら耐え切れる存在だろう(セルサがそうだったように)。
 ともあれ、カミーラの謎めいた性格はかなり魅力的だった。あと、狂言回しとして出てくるロペール兄弟もいい。この兄弟も運命共同体のような不可思議な存在だ。ダニエル役のルイーシュ・ミゲラ・シントラは『神曲』で「預言者」役をしていた役者さんだが、今回もすごくいい味を出している。一度みたら忘れられない人だ。
(31.jul.2005)

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エグザイル・イン・サラエヴォ

exile in sarajevo
1997年 豪
監督:タヒア・カンビス
    アルマ・シャバース


 この映画は旧ユーゴスラヴィア内戦末期の状況をドキュメンタリー形式で撮ったものである。今年はボスニア紛争のデートン合意からちょうど10年の節目にあたる年で、ちょうど先週、スレブレニツァの追悼式典が催されていた。なかなかタイムリーなときに映画を観たように思う。
 映画では、監督のカンビスが主役も兼ねている。彼が亡母の記憶と自己のアイデンティティを探すために、オーストラリアから母の祖国サライェヴォに赴くところから映画は始まる。
 1995年当時サライェヴォはセルビア軍に囲まれ、多民族からなる市民たちは市のなかに閉じ込められた状態に陥っていた。いつどこで狙撃されるか分からないという異様な事態のなかで、サライェヴォ市民は――むしろ生きるために――できるだけ普段どおりの生活を営もうとする。それでも映画に登場する人々の生活にも、死や暴力が無残な形で訪れる。12歳の少女ニルバナの死と、目の前で親しい人の殺害とレイプを目撃した7歳の少女アミラの証言は、とりわけ胸に突き刺さる場面だった。「戦争の被害は女性に最後までのしかかる」という独白は、生き別れた母の人生も含めて、監督が映画にこめた主張の一つではなかったか。
 映画のなかでもっと分かりやすく表現されていたのは、民族主義ではなく多民族共存を、というメッセージである。とくに東西文化の知の集積庫であったはずの図書館の破壊跡と、他宗教にも寛容だった時代に生きたボスニア貴族の墓を映した場面では、多民族共存という理念こそがボスニアの培ってきた遺産だったはずだし、異なる宗教や文化を受け入れる精神こそ永遠に残り続けるものであるべきだと語られている。
 これに加えて、国連の無力さと反イスラムが見え隠れする西側メディアへの批判、および、セルビア民族主義者を「セルビア人ではなく戦争犯罪者だ」として糾弾する点も強烈だった。断固とした態度をとらない国連はセルビア勢力に加担しているも同然だという苛立ちは痛いほど伝わってくるし、あの場におかれたら誰だってそう思うだろう。無差別殺戮を繰り返す民族主義的なセルビア人は、「セルビア人でなく戦争犯罪人」なのだという憤りも納得する。ただ、こうした主張にはどこか気になる点があって、以下その点について、まとまらないままにメモしておく。
 たしかにミロシェヴィッチやカラジッチは「戦犯」ではあるけれども、しかし、同時に彼らはやはり「セルビア人」ではないのか、と思ってしまうのだ。映画ではほとんど描かれていないが、セルビア人もまた、わたしたちはクロアチア人に殺されてきたというだろう。90年代の内戦のみならず、バルカン半島は20世紀を通じて「ヨーロッパの火薬庫」であり、この地域の民族紛争は今に始まったことではなかった。狂信的な民族主義者を「戦犯」として切り離してしまう態度は、彼らを繰り返し生み出してしまう土壌に対する根本的な反省に至らないのではないか。
 これは例えるならば、「ナチスの犯罪」は「ヒトラーとその一味」がやったこととして、彼らを「普通のドイツ人」と切り離せるのか、という問題に近いかもしれない。多民族共存の歴史がバルカン半島にあることは確かであっても(そしてそれが貴重な拠所であるとしても)、その過去の理念でもって20世紀の民族主義の狂気は相殺できるのか、という問いが残ると思うのだ(これまた、「ゲーテやカントを生んだドイツ」でもって「ナチスの犯罪」を相殺できるのか、という問いが近い?)。
 映画は明らかに、クロアチア人およびサライェヴォ市民に視点をおいて撮られていて、監督の立場は「代弁者」という印象を受ける。これは彼が(おそらく)クロアチア系オーストラリア人である点にも関わってくるのかもしれない。彼はサライェヴォにおける「亡命者」であって、厳密にいえば「当事者」ではない。政府筋やマスコミ関係のさまざまな特権をもっていて、あえてその場に身を置いている存在なのである。バルカン半島に真の秩序が回復されるには、そして多民族共存の理念が実現するためには、そこに住まう人々が民族主義の負の遺産を受け止めていくしかないのではないかという気もする。だがこれは「代弁者」の語れることを越えたところにある問題だろう。(もちろん、内戦の渦中に撮られたセミ・ドキュメンタリーであるという性質と、多民族共存の理念を再生させるべきだという主張の重要性を無視するつもりはない。映画では語られなかった問題として、書き留めておく。)
(20.jul.2005)
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