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プーシキン美術館展

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 国立国際美術館でやっていた「プーシキン美術館展 シチューキン・モロゾフ・コレクション」を見てきた。 混んではいたけど、ちゃんと見れたのでよかった。
 セザンヌの「池にかかる橋」が一番印象的だった。緑のラインが交差しながら幾何学的な模様を作っている。よく見ると、森の木立と橋が描かれているのだけれど、一見それが分からず、視線と対象物の関係が一瞬混乱するのだ。セザンヌがフォービズムやキュビズムの先駆けになったというのが納得できる絵だった。
 マティスの「金魚」も、色と線と筆の流れだけを取り出せば、カンディンスキーにつながっていくような印象をもった。ガラスと水のなかに金魚がいるように描かれるのではなく、金魚が前面に飛び出しているあたりがおもしろい。また、同じくマティスの「白い花瓶の花束」も、花の部分の背後ではなく、花の上に影をのせていて、物の見え方に関する試行錯誤が繰り返されているように思う。
 展覧会のあとではロシア物産展もやっていて、そこで菩提樹の蜂蜜を買った。菩提樹の蜂蜜・・・なんて優雅な響き。黄味をおびた薄めの色合いで、どんな味なのかすごく楽しみ。
 
ついでにミュージアム・ショップでbook dartsという銅製の栞のようなクリップのようなものを買う。スケジュール帳にカラークリップで印をつけていたものを、こちらに変えることにした。ノートに膨らみをもたせず収まっていいかんじだ。ペン先の形をしているのもカワイイ。あ、サイトもある! ”a book is like a garden carried in the pocket.”とか “any book you haven’t read is a new book”とか書いてあって、ちょっと小洒落たアイテムね。
 ランチは本町まで歩いて、とあるカフェで食べた。和スウィーツのお店で、食後にほうじ茶のシュークリームとか抹茶のクリームブリュレを注文した。甘くなくて、お茶の香りがして、はじめて食べる味。ちょっと気に入ったので、お気に入りのお店としてインプットしておこう。
 盛りだくさんの一日だった。

展覧会「転換期の作法」

 残暑が厳しい日もあるけれど、真夏に比べると随分涼しくなった。体調もおもわしくなかった。ああ、夏バテしてたんだなあとあらためて思う。気分的に夏が終わって、梨や林檎、葡萄に無花果と、くだものに秋を感じている。ちょっと生き返る気がする。
 国立国際美術館で開催されている「転換期の作法:ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術」をやっと見てきた。テーマがかっちりしているので、きっといい展覧会なんだろうと思っていたけど、期待にそぐわず楽しめた。中東欧・南東欧からロシアにいたる地域は、ここのところずっと心惹かれるものを感じているのだけれど、どこがどの国がちゃんと把握していない自分に冷や汗が出る。今回の展覧会は、南東欧やロシア、ドイツ、オーストリアははずして、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーに焦点を絞ったものだった。最近はバルカン地域の映画をよく観ていたこともあって、この地域とは違う圏域の作品群だったのが興味深かった。 またちゃんとコメント書けるものなら書きたいけれど、現代美術は難しいなあ。
 ついでにチェコアニメもみた。B・ポヤルの『ぼくらと遊ぼう!お魚の話」とシュヴァンクマイエルの「ジャバウォッキー」、あとモグラがでてくる話と、「手」という作品。比較的分かりやすいタイプの政治的メッセージが強い作品だった。ジャバウォッキーは、感覚が捩れそうで悪夢的におもしろかった。 
 帰りにジュンクで志村貴子の『放浪息子』第4巻を買う。なんか複雑な人間関係になってきたなあ、、、。志村さんのほかの作品も読みたい。が、たくさん出ているのでどれから手をつけていいやら考えるとめんどくさくなって、読みたいなあ、と頭の片隅で時折反芻するだけになっている。ま、いいか、、、。

ラ・トゥール展

 国立西洋美術館でやっていた「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」展について、せっかく見たので少しだけメモしておこう。
 George de La Tour(1593-1652)、17世紀、フランスに攻め入られて亡国の危機にあったロレーヌ公国を中心に活動した画家、らしい。
 実は美術館はとても混んでいて、深く瞑想するようなラ・トゥールの作品を落ち着いて見れる状態ではなかった。比較的空いていたのが、同時に展示されていたジャック・カロ(Jacques Callot 1592-1635)の版画作品。こちらは戦争の惨禍と残酷さをダイレクトに描写しているものだった。何十人もの人間が大木に吊るされている場面など、初期近代のヨーロッパの現実を生々しく伝えてくる作品だった。ジョルジュ・アガンベンの『ホモ・サケル』を思い出した。戦争の惨禍のなかで、人間の生はいかに剥き出しの状態におかれてしまうものであるか、考えさせられるものだった。ラ・トゥールの作品はカロの作品とネガとポジの関係にあるようだ。その作品に戦争の影は直接は現れていないけれど、隠蔽された形で反映していたように思う。
 ・・・物理的にきちんと見れなかったという事情もあるけれど、どうも今回はカロの作品のほうがインパクトが大きかったみたいだ。

印象派

 東京の国立西洋美術館に行った。常設展のみ鑑賞。でもよくこれだけ集めたなあと感心するくらいあった。17世紀以前、17世紀、18世紀、印象派、印象派以後、現代とそこそこ量があって、西洋絵画の流れをみることができた。
 モネとロダンが一大コレクションらしく、超有名どころの作品がばんばん飾ってある。日本人が印象派大好きなのは、西洋美術独特の「意味」が剥落していくプロセスにあるからだ、と読んだことがある。とくに宗教画に顕著なように、聖書の題材をもとに描かれた絵には当然「お約束事」があって、キリスト教圏でもない人間にとってはお勉強しないと分からないことが多い。でも印象派あたりになると、そういうお約束事を無視しちゃえ、目にみえる現象を描くぞーということになってくるから、特定の文化圏外部の人間にはとっつきやすくなるわけですね。
 まあ、それはともかく、印象派は「光」の粒で絵画を描こうとするから、それはそれですごくおもしろい。目に見える現象は光の粒に分解できるのですね。それを寄せ集めると、なにかしら人間にとって意味のある姿が浮かび上がってくる、と。モネの作品では、霧のなかに浮かぶロンドン橋かなにかを描いた作品がおもしろかった。薄桃色の光の粒子が微妙にグラデーションをつくっていて、一瞬みると、ピンクのもやもやした絵だった。これを「霧」と思えるのも、よく考えると不思議だ。