文字が分解する感覚

 ちょっと前、中島敦の手紙類が見つかったというニュースがあった。中島敦といえば「山月記」。教科書で読んで、その硬質な文章に惹かれて、他の作品も読んだことがある。もう記憶もおぼろげだけど、「木乃伊」と「文字禍」という話がとてもおもしろかった。
 「文字禍」というのは、アッシリアかどこかの書記が主人公で、自分の書いている文字(楔形文字?)を見ているうちに、それがどんどん分解されていってしまうという、ちょっとパラノイドな話だった。細かい内容は忘れてしまったけれど。
 なんでこの話が印象的だったかというと、その感覚がすごくよく分かったからだ。たとえば「顔」という漢字があるとすると、これをじっと見ていると、「彦」と「頁」に分解されていき、どうみても「彦」と「頁」にしか見えなくなってくるのだ。「彦」はさらに「立」と「三」に分解され、「頁」は「一」と「自」と「八」に分解されていく。こうなってくると、もとの「顔」という漢字に戻そうとしても戻ってくれずに、漢字はバラバラになったまま。こどものころは、この感覚がすごく気持ちわるくて、めまいがしそうになっていた。
 すっかり忘れていたこの話が、マツモトさんと話をしているときに突然でてきた。中島敦の話になって、マツモトさんがこの「文字禍」がおもしろいといって出してきたのだ。正直言ってびっくりした。中島敦といえば「文字禍」という人に出会ったのははじめてだったので。多分文庫には入っていなかったと思うし、中島敦の作品のなかではマイナーなあたりではないんだろうか。
 しかしマツモトさんは、「漢字の書き取り練習で同じ画をまとめて書いた人間なら、誰でもわかる感覚だ」と力説した。あれ?そうなのかな。いわれてみたら、漢字の書き取り練習では、一行二行、同じ画ばかりまとめ書きしたことはある。でも、「だから」中島敦のあの話が気になったとは思っていなかっただけに、すごく不意をつかれた意見だった。個人的には、完成された漢字を「じっと見ていると」呼び起こされてしまう感覚、だったんですけど。
 まあ多少のちがいはあれ、漢字文化圏の人間なら誰でもわかる感覚、というのは当たっているかもしれないな。
(01.01.02)