ドッグヴィル

Dogville
2003年 丁抹
監督:ラース・フォン・トリアー
出演:ニコール・キッドマン
ポール・ベタニー
ローレン・バコール


 トリアーが、アメリカに行かずにアメリカを撮れるのかという挑発に応えた作品、らしい。こうした宣伝文句にかなり洗脳されて見たところがあって、描かれているものはとくにアメリカに特有のものではないんじゃないか、というのが第一印象。人間社会のもつある種普遍的な「悪」が描かれていたような気がする。ともあれ、3時間にもおよぶ長さは、最後のシーンにもっていくための粘っこい伏線である。後半、グレース(ニコール・キッドマン)の扱いがあまりにも嗜虐的になっていくので少々うんざりしたのだが(あの独特のセットが余計にそういう効果をだしているんだよね)、最後の急展開はやはり見ごたえがあった。以下感想というよりは、自分なりの理解の大雑把な図式化。
村人=子どもや夫を愛し、病気を心配し、娘を介護し、パイを焼き、日々の労働にいそしむ普通の人びと。そして弱く、ずるく、欲望に忠実な存在。家族や隣人を愛することはできても、見知らぬ人間を同じように愛することはできない。困っている隣人を助けようという善意はもつが、条件付でないと実行できない。逆に、仲間ではないと判断した人間に対しては、際限なく冷酷になれる。この際限のなさは、仲間ではない者を家畜と同列にしか考えないレベルにまでいきつく。しかも良心の呵責などかんじない。良い行いも悪い行いも、自らの意志で行動するのではなく、他者の命令に従うのみ。ゆえに結果に対して自分の責任をひきうけることはないし、むしろ自分は被害者だと考える。「犬」。
トム=「犬」のなかでもインテリに属する。ほかの「犬」たちを誘導し、啓発しなければならないし、自分にはそうする能力があると考えている。その目的にそって計画はたてるけれども、結果はことごとく意図せざるものとなる。支配欲を強くもつが、実際のところそうするだけの力はもたず、より強い権力をもつ人間におもねろうとする。理想を唱える能力はあれども、その実、凡庸なほかの「犬」と大差はない。
ギャングのボス=権力者。権力をもつ者とそれ以外の者(=犬)とを同じ人間とはそもそも思っていない。権力者は「犬」をしつける必要がある。放っておくと噛み付くから。けれどもうまくしつければ、忠実に行動すると知っている。
グレース=物語のなかでもいちばん厄介な存在? 彼女の行動原理は「正義」と「寛容」か? 父(ボス)の権力思考に反発し、父のもとを飛び出してドッグヴィルにくる。彼女はそこの人びとに受け入れられるよう、自らの身体をつかって奉仕することで、父の論理を反駁しようとする。けれども彼女の期待は裏切られ、「犬」は「犬」であることを身をもって体験する。それでも、かれらの残酷さが弱さと平凡さに由来することを理解しようと努めるが、最終的には、弱さに対する責任をとらせるという論理で、「犬」を抹殺する。
 とくにこれがアメリカだ、ということもない。犬も権力者もインテリも、歴史のなかには偏在しているだろう。グレースのあのベクトルが急激に反転する様は異様な迫力をもつし、映画のなかの一番のハイライトだと思うが、こうしたメンタリティすらアメリカにのみ独特だとも思わない。「正義はなされしめよ、たとえ世界が滅びるとも」に近い感覚ではないか。ただ唯一、グレースが権力者の娘、しかも不法の権力者の娘であること、権力という後ろ盾に支えられた上で、正義を唱え実践することができる人間である点は興味深い。アメリカにこだわるならば、この点がもっともアメリカ的かもしれない。 
 ただ、この映画の人間に対するシニカルで突き離したような視点は、アメリカをつきぬけて、人間のもつ「傲慢さ」を浮き彫りにしている。最後にいたって、登場人物たちがしきりに「傲慢」という言葉を投げかけあうのが印象的だった。蜘蛛の糸が切れて、みんないっしょに地獄へ堕ちていくかんじで、救いもへったくれもない。ここで終わるのならこの監督の次の作品を見てやろう、絶対つくれよと思った。
(05.apr.2004)
オマケは「ドッグヴィル」みた人とのダイアローグです。こういう会話のはずむ映画はやはり見応えがあるってことですね。岡田さん、どうもありがとう!
オマケ1
オマケ2


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