環境問題

 ヨハネスブルクでの環境サミット関連のニュースが連日伝えられている。希望をもてるようなニュースは残念ながら、ない。環境問題、富と貧困の圧倒的な格差はますます広がっていると伝えられた。その原因の根幹に、グローバリゼーションのとどまるところを知らない展開があるのは、誰の目にもあきらかだ。
 多国籍企業を中心とするグローバリゼーションの動きをとめて、今すぐ全世界が強制的にでも低成長になれば、もしかしたら環境問題は改善の方向に向かうのかもしれない。でもおそらくそんなことは不可能だ。企業は利潤をあげようと死に物狂いだし、資本主義経済の論理からはなれるのは即、企業生命の死を意味するだろう。
 先進国に住む人間の多くも、コマーシャルやトレンドに購買欲を刺戟されながら、さまざまな商品を消費する。それこそ、アフリカのコーヒー農家が、多国籍企業に生活を維持できなくなるほどコーヒーを買い叩かれていくのに反比例して、先進国の人間は、流行のコーヒー店で廉価なコーヒーを楽しんでいるのだ。
 だからといって、コーヒーを楽しむのが悪いと判定しても、それを何らかの説得力をもたないかぎり、意味はない。こういった生活スタイルを享受してしまっている以上、そしてそれを劇的に変えることが難しい以上、少しだけ時間をかけて、物の見方を変えていくよう努力するしかないと思う。
 たとえば、多くの人がコマーシャルをみて購買欲を刺戟されるのならば、コマーシャルやニュース番組で日常的に環境問題をとりあげて、人々の日常感覚に環境問題意識を浸透させていくのも必要ではないだろうか。今はまだ、環境に積極的に関心をもつ人しか、環境問題を内面化していないと思うから。
 ただ、どれほど環境にやさしい生活をしたところで、それが人間を中心にした見方であることには変わりがない。環境を中心に世界をみるというディープ・エコロジーの発想からすれば、「環境にやさしい」などという言い方すら人間の勝手な都合でしかない。
 ジレンマを抱えざるをえないのだけど、このジレンマを抱えることが必要なのだと、答えにもなっていないコメントだが、そういうのが精一杯である。