ダンサー・イン・ザ・ダーク

dancer in the dark
2000年、丁抹
監督:ラース・フォン・トリアー
出演:ビョーク
カトリーヌ・ドヌーヴ
ディヴィッド・モース


 共産主義時代のチェコからアメリカに移民してきたセルマは、いずれ視力を失うという難病を抱えている。彼女は、自分が失明することは仕方のないことと受け入れていても、同じ病気が遺伝すると知っていながら生んだ息子ジーンには同じ苦しみを味わわせたくないと、必死に働いて手術代を貯めていた。それは彼女の「秘密」だったし、息子に「目」をプレゼントしてやることが彼女の生き甲斐でもあった。けれども、彼女が「秘密」を人に話してしまったために、彼女の運命は一気に暗転していく――。
 客観的にみるならば、セルマの人生は最初からとても幸福とはいえないものだ。移民でシングルマザーで、しかも難病を抱えている。そのうえ、運命の暗転によって、犯罪者の烙印をおされ、最後は死刑囚として殺される。あまりに悲惨な人生で、正直、裁判のシーンなどわたしは正視することができなかった。
 けれども映画を見終わったあとは、しばらくのあいだ、不思議な余韻に満たされつづけた。セルマという女性の像にぐっと近づいていくと、単純に彼女を不幸とか悲惨とか言いきることもできなくなる。
 映画のなかで、セルマ自身が、息子に必要なものは「母親」ではなく「目」なのだと叫ぶシーンがある。失明の恐怖を抱えつづけて生きてきた彼女が、同じ恐怖と苦しみを味わうと知っていながら子どもを生んだのは、「赤ん坊をこの腕に抱きたかったからだ」という。こうした立場におかれた女性が母親になることを選ぶとき、そこにはいったいどんな決断があったのだろう。おそらく、子どもを生んだことで自分の望みが果たされた以上、その子に対して彼女は「代償」を払わなくてはならないと考えたのではないか。彼女のその後の人生は、負債を払うことが第一の目的となったのだろう。だから、工場で必死にはたらいて手術代を貯めようとしたのだし、自分の命を救うために、その手術代を転用して裁判をやり直すという機会もかたくなに拒否することにもなる。彼女の生は、「贖罪」をねがう「殉教者」のそれに一番近いような気がした。
 もうひとつ、セルマにはミュージカルに対する熱烈な思いと類まれな歌唱力があった。機械の動く音や列車の走る音や換気口から聞こえる外の音や足音といった、単調でかすかな音をとらえては、空想のなかで、無限のふくらみをもった音楽とミュージカルの世界に変えてしまう。もちろん、苦しすぎる現実のなかでは、この能力も現実逃避としてしか機能せず、それがまた胸に突き刺さるのだが。ミュージカルという基本的にハッピィなものが、この映画では見事に反転させられた使い方がなされていて、それがすごく印象的だった(いや、もともと空想や歌の力というのは、悲惨な状況におかれた人間に唯一残されている自由なのかもしれない。そうした力のもつ原点の荒々しさと素朴さが表現されているともいえるのか)。
 それでも映画は最後に、彼女に「贖罪」が成ったことを教えている。おもうに、セルマにとっては、息子に「目」が与えられてはじめて、「母」であることも受け入れられたのだ。それは彼女が自分自身と和解することだったのではないか。処刑台にたった盲目の女がその声で歓喜の歌を、息子への愛の歌を奏でる場面は、彼女に与えられた才能と課せられた負債の二つが溶け合う瞬間である。悲惨の極致でありながら、魂が力強く光り輝く瞬間で、その衝撃は地味ながらもじわじわと効いてくる類のものだ。そしておそらくは、彼女の最期をみとどけた友人たちが息子への伝達者となること、それによって、母の愛を確信できずにいたであろう息子が一筋の希望をえることを期待させられるのだ。
 同じ監督の映画でも、「ドッグヴィル」を見終わったあとには、喉に骨がひっかかったような気分が残ったのだが、この映画には痛々しさだけではなく、どこかカタルシスも感じた。それは最後の結末ゆえかもしれない。
(24. jan.2005)


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