映画

 『パーフェクト・サークル』という映画を観た。旧ユーゴスラヴィアの内戦を扱った作品で、見終わった直後もため息をついてしまう映画なんだけれど、少し時間がたつと、描かれている内容にもっときちんと向き合わなくてはと思わせる映画だった。
 この地域の映画は、何をみても、人間の描き方が秀逸。シンプルなのに奥が深い。東欧独特のセンスってあるよなーといつも思う。

映画」への12件のフィードバック

  1. あざらしくん

    スレブレニツァ(Srebrenica)の悲劇からも、ちょうど10年ですね、、、

  2. kiryn

    そうか、1995年の7月に起こった事件だったのですね。スレブレニツァ虐殺は『エグザイル・イン・サラエボ』という映画では扱われているようですが、これも見ておかなくては、、、。エスニック・クレンジングとか、ショッキングなニュースが続いた時期でしたね。

  3. MAI

    kirynちゃま
    あっ!
    下にレビューがあったんですね!
    おくればせながら読ませていただきました。
    なるほど、確かに詩人が円を描くシーンが出てきましたね。kirynちゃんの解釈、とっても納得です!
    「エグザイル・イン・サラエヴォ」のビデオも持っているのに一度みただけでだいぶ忘れてるので、もう一回見直してみます!

  4. MAI

    kirynちゃん、こんにちはー。
    mixiからとんできましたよ。
    「パーフェクト・サークル」は公開当時に映画館でみました(でももうだいぶ忘れてます。。)
    ブルガリア人の友人と見たんですが、彼女に、「『パーフェクトサークル』ってどういう意味だと思う?」ってきかれて、私はよくわからなかったんです。kirynちゃんはどう思います?
    彼女は、「完全なる円のように悪循環して、あの地域の虐殺とか悲劇が繰り返されるっていう」ふうに理解したそうです。そんな完全に希望のない映画だったかなあ。。

  5. kiryn

    MAIさーん!
    こっちに遊びにきてくれてありがとう!
    そうですか、MAIさんは公開当時にこの映画をご覧になったんですね。「完全なる円」の解釈、わたしは循環のイメージでは捉えなかったので、そのブルガリア人のお知り合いの方の意見も、なるほどーと思いました。
    「完全なる円」って、数学的にも哲学的にもすごく美しいイメージが、わたしにはあったんですね。でも、映画はそれを「現実のサライェヴォ」に重ね合わせるという手法で、完全性=善といったイメージを破壊してくる凄みがあるように思いました。
    でも、MAIさんの言われるとおり、完全に希望のない映画ではないと思います。安直に、希望がある、ともいえない映画でしたが。うまくいえないのですが、現実が悲惨であればあるほど、人間が愚かであればあるほど、政治が愚劣であればあるほど、人間の善さや誇りについて描こうと思うものなのかもしれません。
    「エグザイル・イン・サラエヴォ」はわたしもまだ見ていないのですよ、見ると辛くなりそうだなあ、、、でも近いうちに見ることにします。

  6. MAI

    kirynちゃん、こんにちは、
    またおじゃまします!
    >現実が悲惨であればあるほ
    >ど・・・人間の善さや誇り
    >について描こうと思うもの
    まさに同感です。
    >完全なる円のイメージ
    なぜか私は美しいというよりは
    恐ろしいというイメージが先行していたんです。どうしてだろう!?
    過去に読んだものに何か影響されているのかな?ドストエフスキーあたりかな?と思ったんですが、思い当たるところを調べてみたけれど、ありませんでした。うーむ。
    それだけでしばらく考え事ができそうなくらい面白いテーマだなと思ってしまいました。
    「エグザイル・イン・サラエヴォ」
    私も近いうちに見てみます。

  7. kiryn

    MAIさん、こんにちは。
    >なぜか私は美しいというよりは
    恐ろしいというイメージが先行していたんです。
    でも映画に関しては、そのイメージのほうが合っていますよね。
    >過去に読んだものに何か影響されているのかな?ドストエフスキーあたりかな?と思ったんですが、思い当たるところを調べてみたけれど、ありませんでした。
    完全性を、八方塞りに包囲されて抜け出ることができない、というイメージで捉えるとすれば、エンデの「自由の牢獄」という話なんかを思い出すかなあ(主旨はだいぶズレますが)。
    でも、どちらかというと、わたしもドストエフスキーのほうが気になりますね。彼は、人間の善良さをも書こうとして挫折し続けた作家だと思うので、、、。
    映画では、現実の酷さが目の前にあるから、あえて「悪」を描く必要はなかったのでしょうけれど。

  8. MAI

    kirynちゃん、こんばんはー。
    エンデは、モモしか読んだことがなかったなあ、「自由の牢獄」チェックしてみますね。
    >ドストエフスキー
    「悪魔と神との戦いがおこなわれている。その戦場が人間の心である」
    っていってるように、アンチノミー的な世界を描いた作家ですよね。すごくリアリティがあるというか・・・。彼の世界では、善と悪のどちらか一方に決着がつくってことはなかったんでしょうね。

  9. kiryn

    >彼の世界では、善と悪のどちらか一方に決着がつくってことはなかったんでしょうね。
    ほんとにそうですね。
    わたしは読むのが遅いのですが、今『賭博者』を読み進めている途中です。ドストエフスキーは、悪への傾向性にとらわれる人間を描くのがとてつもなく巧い作家だと思います。こういうメンタリティをもつ人間は確実にいる、という感触をいつも持ちます。その代わり、アリョーシャやムイシュキンのような人物は、確実にいるかどうか、実感がもてずにいますが・・・。
    エンデの「自由の牢獄」は千夜一夜のパロディなのですが、考えるととてもコワイ話なのですよー。

  10. MAI

    >悪への傾向性にとらわれる人間を>描くのがとてつもなく巧い
    そうなんですよね。しかもそういう登場人物たちってみなあるひとつの理念を体現してるような・・・
    「神と不死がないなら善行など必要ない、この世に罪人などない」っていうやつです。(でも、ドスト氏はそれに完全に賛同していたってわけでもないのでしょうね。そういう理念の持ち主って、自殺したり、とてつもなく不幸とか滑稽な姿が描かれてコテンパンにやっつけられてるような気もするし)
    >アリョーシャやムィシュキン
    たしかにこっちはリアリティはないですよねー。というのも、こういう人物像に希望をみいたしたいという「願望」みたいなものにすぎなかったのかもしれないですよね。
    自由の牢獄、怖い話なんですか〜
    楽しみ。いつか読んでみよ♪

  11. kiryn

    MAIさん、おはようございます。
    >そういう登場人物たちってみなあるひとつの理念を体現してるような
    いわれたらそうかもしれない。誰がどんな理念を体現しているか、って考えるとちょっとおもしろそうですね(難問だけど)。
    >こういう人物像に希望をみいたしたいという「願望」みたいなもの
    あ、うまいですね。たしかにそんなかんじです。「パーフェクト・サークル」でも、言いようのないひどい現実があるからこそ、孤児と死にかけの犬を世話する詩人の行為に「希望」を見出したいという、そんな「願望」を感じるんですよね。アリョーシャやムイシュキンやソーニャにも、そうした片鱗があるような気がします。成功している、とはいいがたいのだけれど。
    こうした感覚って、タルコフスキーの映画にも時折感じます。やっぱり正教文化圏独自のセンスなのかしらん。

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