キングダム・オブ・ヘブン

kingdom of heaven
2005年、米
監督:リドリー・スコット
出演:オーランド・ブルーム
エヴァ・グリーン
ジェレミー・アイアンズ


 第二回から第三回にかけての時期の十字軍を主題にとりあげ、ハリウッド的なエンターテイメント性を意識しつつも、史実的な正確さの追求と現代世界に対する政治的メッセージを織り込んだ作品に仕上がっている。
 主人公バリアンはフランスの田舎で鍛冶屋をしていたが、妻と子を亡くして生きる意味を見失っている。そこに突然「父」と名乗る騎士がやってきて、エルサレムに向かう十字軍に参加せよと説く。その後バリアンは成り行きで人を殺してしまう。自分は神に見放された罪深い人間だという思いに囚われ、エルサレムに行けば神は救ってくれるのかと父に尋ねるが、父は「行けば分かる」とだけ応える――物語の導入がラノベ並のイキナリな展開で、ラノベの主人公のごとく、バリアンもその隠れた能力を徐々に発揮してものすごいヒーローぶりを発揮する。
 こう書くといかにもハリウッド映画の「お約束」というかんじなのだが、主人公が陸路、海路をへてエルサレムに到着するあたりから、話が俄然おもしろくなってくる。12世紀頃のエルサレムの複雑な政治状況がしっかり描かれ、主人公もその政治に翻弄される一人の人間であることが見えてくるからだろう。
 当時のエルサレムはキリスト教の王が統治する時代であったが、国家自体は末期に至っていた。対してエルサレム奪還をねらうイスラム側にはあのサラディン(ハッサン・マスード)が登場していた。エルサレム王ボードゥアン4世はイスラム教徒との和平と共存を至上命題として掲げ、キリスト教徒内部の反感や不和を押さえ込んでいたが、その死期が近づいていたこともあって、テンプル騎士団を中心とした反イスラム勢力を封じ込めることができない。一度戦争になりかけたとき、王が身を挺してサラディンと直接交渉に臨み矛を収めさせる。しかし彼が死んだあと、次のエルサレム王ギー・ド・リュジニャンはイスラムとの戦争を始めてしまい、あっというまにサラディンに敗北を喫し、エルサレム陥落の扉を開いてしまう。
 主人公バリアンは、落城の危機にあるエルサレムで、民を守るためにサラディンの軍を迎え撃つべく準備を進めていた。映画のクライマックスのシーンは、このサラディンとバリアンという智将同士によるエルサレム攻防戦になる。
 専門的な軍事集団である騎士がほとんどいない状態で、バリアンはエルサレムの農民たちをにわかの騎士にしたてるために説得し、勇気を奮いたたせ、そのうえでイスラム軍を迎え撃つべく様々な軍事的工夫をこらしていた。多勢に無勢のなかで、皆殺しという最悪の結果を避け、住民の自由と安全を保障したうえでエルサレムを明け渡すことをサラディンに承諾させるという明確な目的をもっての陣頭指揮である。
 何より中世の戦争があますことなく映像化されていて、これだけでも見る価値がある。イスラム兵は巨大な投石器から繰り出す石で城壁をくだきながら、徐々に城壁に近づいて、橋を城壁にかけて城内に押し入ろうとする。その上にエルサレム側は、何万本と矢を放ち、城壁をのぼってくる敵兵に油を注いでは火を放つ。打ち砕かれた城壁のはざまで、両軍の歩兵たちが血みどろの白兵戦を繰り広げて激しい攻防を続ける。どれほどの人間の肉体が直接的に損傷されることで勝敗を決していたのか、とにかく圧巻の場面である。最後、サラディンを交渉の場をひきだしたバリアンは、のぞみどおり、住民の安全な脱出という条件を勝ち取る。残酷なシーンが続くけれども、同時に、戦う者が互いに敬意と礼節を守ることもまた重視されたことが分かる。
 バリアンにしろ、サラディンにしろ、多くの人間を翻弄して止まない「エルサレム」に関わることで、政治と宗教が激しく交錯する地点に立たされると同時に、それを俯瞰する視点をも持ち合わせている。人間は相変わらず「エルサレム」に翻弄され続けており、十字軍がはるか過去の出来事になった今でも、十字軍のイメージだけは敵対する陣営に都合のいいように利用されている。そうした昨今の事情を考えるならば、この映画がキリスト教・イスラムのどちらかに偏らずに製作を試みた姿勢は、評価されてよいものだと思う。
(01.nov.2006)
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ki