祖父と祖母、遠さと近さ

 去年の秋頃に祖父の五十回忌があった。
 五十回忌までするのはとてもめずらしいことらしい。上用饅頭は黄白ではなく、紅白だったし、蝋燭も赤だった。50年もたつと祖父を直接知っている人も少なく、あるいは年をとってしまっているので、身内だけの小さな会だった。
 祖父の遺品や写真もみせてもらった。写真はオールウェイズな昭和どころか、昭和初期に写されたものばかり。みな軍服を着ているし、壮行会の様子なども写っていた。復員した戦後にはサラリーマンになったらしく、スーツにネクタイといういでたちの祖父が写っている。検閲済みの葉書が何通も駐屯していた南支から祖母に送られていた。驚くほど達筆だった。几帳面な人だったのかもしれない。
 わたしの生まれる前に亡くなっているから、わたしは祖父に会ったことはない。個人的で直接的な記憶はまったくなく、間接的に聞いた話と写真にしか、祖父の痕跡はない。写真に写っている人は知らない人なのだが、自分に縁の深い人でもある。遠いのに近い、というこの距離感は何なんだろうと不思議に思う。
 先月、祖母が他界した。
 祖父の五十回忌のあと半年もたたずに逝った。祖父と祖母は半世紀ぶりに逢瀬を楽しんでいることだろう。
 仏壇に位牌と祖母の写真が飾られている。写真に写った祖母は少し笑っているようで機嫌がよさそうだ。祖母とは一緒に暮らした時間は長いから思い出もたくさんある。それだけに、祖母と対する親密さや近さの感覚と、もうこの世では会えないという遠さの感覚は祖父に対するよりも切実なかんじがする。
 会いたくてももう会えないという相手が自分に近しい人であればあるほど、遠さと近さのこの距離の幅は増すのだろう。相手がこの世からいなくなってしまう場合、この距離は最大限にまで広がってしまい、それに気付かざるをえなくなる。結局のところ、生きていくことはこの距離感を耐えることであり、自分自身のものとして引き受けることなのだと思う。

4 thoughts on “祖父と祖母、遠さと近さ

  1. Kkeiko

    こんにちは、Keikoです。
    五十回忌の為に、皆が集まるなんて
    とても豊かな光景ですね。
    ・・もしも自分が死んで、その50年後に人が(親族だけでも)集まるとしたらそれって凄い事の様に思います。
    kirinさんは、そのお爺様に会われた
    事がないのですね。
    >結局のところ、生きていくことは
    この距離感を耐えることであり、自分自身のものとして引き受けることなのだと思う
    だけど世の中には、生きていて未だ
    自分が愛情を持つor持った存在を
    亡くした経験の無い人もいるわけで(飼い犬ですら)。
    またはそういう喪失経験を複数抱えて
    生きる人もいるわけで・・・そういう
    ところのバランスって(各人同士で)
    どうやって取っていけばいいのかなー
    ・・・と日々思っています。
    すいません何か言いたい事が
    上手く書けませんでした。
    遠さと近さ、って素敵な表現
    ですね。

  2. kiryn

    こんばんは。
    >・・もしも自分が死んで、その50年後に人が(親族だけでも)集まるとしたらそれって凄い事
    自分が死んでから50年後って、たしかに考えもしない時間幅ですよね。
    まあ一般的には、五十回忌ができるのは、けっして幸福なことではないのでしょう。祖父は若死にだったので。
    でも50年前後の時間の経過はすごいですね。半分歴史上の出来事だけど、半分はまだ今のわたしたちの生活とも関連しているかんじです。
    >自分が愛情を持つor持った存在を亡くした経験の無い人もいる
    近さと遠さの距離感は、相手がいなくなってしまえば尖鋭に感じることのできるものだけれど、今生きている人たちの日常生活のなかにも、この距離感は存在しているのだと思います。
    なんというか、日常的にくりかえされる距離の振幅のつみかさねが、記憶と生活を形作っているみたいなイメージでしょうか。
    それは自分のこととして引き受けるものだけれど、他の人と共有している部分もあるから、その辺はもっと複雑かもしれません。
    祖父の五十回忌は、これもまた日常のひとコマですが、遠さを感じるとともに、近さも感じる機会でもありました。不思議な感覚ですが、そのときは自分は祖父のそばにいるのだと感じていました。
    ボヤ〜と考えていることを聞いてくれてアリガトウ>Keikoさん

  3. Kkeiko

    Keikoです。またお邪魔します。
    >なんというか、日常的にくりかえされる距離の振幅のつみかさねが、記憶と生活を形作っているみたいなイメージ
    そういった感覚のレイヤー的連続を、自己と他者で共有する、という表現は一見とてもクールに響きますけど実際はもっとリアルで重いものなんですよね。。
    何となく、でも癒されました(また 笑)。
    考え出すときりが無い様な気もしますが
    自己と他者、自己と死者、自己と歴史(というかアイデンティティー?)、
    って結局自己完結的なものなんですかねー。。。^^;

  4. kiryn

    Keikoさん、こんばんは。
    お返事遅くなってしまいました。
    感覚のレイヤー的連続って、
    言い方カッコいいなー。
    でもそゆことですよね。
    普段意識もしないような事柄の蓄積で、ベタなものなんでしょうけれど。
    自己完結・・・しちゃいけないんだ!と思ってます。
    むしろ広がっていくし、くり返されていくし、戻ってくるし、何度も反復するようなものでありたいですねぇ。
    でも今は、中国の大地震の映像を見て、ものすごい虚無感におそわれてます。繊細な物言いなどふっとんでしまいますよね…

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