世界を言葉でとらえる、あるいは。

  ひとがどのように世界をみているのか、ちょっとだけでも体験できたらおもしろいだろうなと思う。自分が見ているようにしか世界はみえないから、世界を音楽で捉えている人や、数学で捉えている人や、色彩で捉えている人と知り合うと、なんでそんなふうに世界を見れるのか、とても不思議だから。
 あたしの場合は、世界に起こっていることを、頭の中では文字コードで変換している。つまり、何かに感動したり、刺激をうけたりすると、それを「言葉」に置き換えようとしている。
 自分から発する場合も「言葉」だし、自分が受け取る場合も「言葉」であることが多い。よく、疲れたときには、音楽を聴いたり好きな画集や写真をみたりすると、気分が安らいで癒されるといわれる。たしかにそういう効用があることは否定しないけど、あたしの場合は、たとえ音楽や画集を見ていたとしても、「言葉」を捜している。音楽なら歌詞だし、画集や写真も、言葉がつけられてあったり、あるいは自分の中で「言葉」に翻訳できるものが目にとまる。「言葉」によって、癒されていることが多い。だから、癒されたいときは、むしろ手っ取り早く、好きな本を読む。というより、文字に溺れる。
 それでも、こどもの頃はもう少し、リズムやメロディーや、絵そのものを見ていたように思う。だんだん自分には、音楽や芸術のセンスがないと分かってくるにつれて、ますます「言葉」のほうに特化してしまったみたいだ。そうすると、ますます、「ないものねだり」で音楽や芸術のセンスのあるひとに惹かれてしまう。世界を音や色彩や数字で捉えるということ自体が想像できないんだから、仕方がない。
 文章であれば、それを書いた人がどこまで深く物事を考えているか、どれほどのセンスがあるかが判断できるけど、音楽やアートに関しては、同じようには判断できないと思っている。自粛している。
 でもときどき、この好感が反対に転じて、うんざりすることがある。どうせあたしには分からない、という投げやりな気持ちになる。そうなると、CDをかけて音楽を聴くという行為自体がすごくイヤになる。今はどのジャンルであれ、アーティストの個性をださなくてはいけない時代だから、個性を競い合っているのはあたりまえなんだけど、特定のアーティストの名前のついた個性が、無性にうっとうしくなる。それがあたしに一体なんの関係があるの? あたしにとっては、あなたは生活を潤すひとつの手段でしかなくて、あなたが消えようが売れようがどうでもいい、と毒づいてしまう。椅子なんて適度に快適に座れたらいいんであって、「イームズの椅子」とか「バウハウスの椅子」とか、「○○の」の部分がウルサイ、て思ってしまう。・・・とげとげしい気分になっているときは、こんな状態。
 わたしの場合、音楽やアートでさえ、「言葉」で翻訳できるようになればいいんだけのことなんだけどね。
(01.11.21