キシュ『死者の百科事典』

 二〇世紀は戦争の世紀とも評される。近代以降の戦争の死者数を調べた研究によると、死者の数は今世紀に入ってからはうなぎ上りに上がるらしい。かつての死者は主に軍人だったけれど、今世紀の戦争では民間人の死が膨大に膨れ上がったためである。
 死者を数字で記されると、なにかとてつもない事が起こったのだと分かってはいても、数字はどこか無機質で死に対する実感をもたらさない。数字に還元されてしまうと、見えなくなってしまうことは多い。カウントされる「死」の背後にあったはずの、その数の分だけの「生」が見えなくなる。
 ユーゴスラビアの作家ダニロ・キシュの「死者の百科事典」(『死者の百科事典』所収、東京創元社、1999年)は、語り手がある晩スウェーデンの王立図書館で「死者の百科事典」なるものをひも解き、そこに描かれた彼女の父の生涯を読むという話である。
 「死者の百科事典」という謎めいた代物は、「他のいかなる百科事典にもその名前が出ていない」死者を項目に載せた事典とされる。その事典の目的は「人間世界の不公正を正して神の創造物すべてに永遠の世界に等しい場所を与え」ること。物語は、その条件に該当する語り手の父の生涯を細かく辿っていくことで進む。父はどこで生まれどこで育ち、何を見何を感じ、誰を愛し誰に怒り、そしてどんな死を迎えたか――読む者に折々の情景が浮かび上がってくるような細やかさで、一人の人間の人生がそこに克明に鮮やかに記されている。
 語り手は父の項目を読み終わって次のようにいう。
「ひとつひとつの人生、ひとつひとつの苦悩、ひとつひとつの人間としての継続を、記録し価値付ける人たちがまだこの世にいるのだという証拠をもっていたかったのです」と。
 個々人の生はかくも多彩であり、一つの色に染め上げることなどけっしてできはしない。世界中の無名の死者たちの生涯を記録した「死者の百科事典」とは、人々の生を平板化しひたすら数に還元してきた、そしてこれからも還元していくであろうこの時代に対する、キシュの静かなる抵抗といえるのではないだろうか。