ナチュラル・ボーン・キラーズ

Natural Born Killers
1994年 米
監督:オリバー・ストーン
出演:ウッディ・ハレルソン
ジュリエット・ルイス
ロバート・ダウニーJr.


 「生まれながらの殺人者」がもしいるとすれば、どういう形で描き出せるものなのかを知りたくて映画を観た。「殺人」というテーマを扱ったものと期待したのだが、内容の照準はどうもそこではなかったようだ。むしろ、マスコミ批判という観点から見た方がよくて、この見方からすれば、よくできているとは思う。それともうひとつのテーマはやはり「愛」でしょうか? ベタな気もするけど。
 「生まれながらの殺人者」は、つきつめていくと、殺人行為に走る理由がないのに殺人を行う者のことを意味するのかもしれない。この行為が人間にとって、また社会にとって、何を意味するのか、考えていくとおもしろい。この場合、理由なき殺人行為の理由を環境に求めていったのでは、どうも迫力が欠けてしまう。親に虐待されたから、貧しかったから、まともな教育を受けられなかったから等々、これらが殺人者が殺人にいたる要因の一つ一つではありえても、理由なき殺人の理由としてはやはり弱い。映画では、ミッキーとマロリーが殺人を繰り返すのは、そうした環境による原因ではなくて(マロリーは微妙だけど)、彼らは殺人を躊躇なく行う「悪」の存在なのだと、とりあえずそういう設定にはなっている。
 映画のなかで、ミッキーが自らの「殺人哲学」をテレビカメラに向かって語る場面があって、「殺人者こそがピュアである」みたいなことをいっている。興味深く聞いてたんだけど、これはどうも彼の戦略らしい。刑務所内に暴動を引き起こして、その騒ぎに乗じて恋人を救いに行くという。ミッキーが頭のいいヤツだっていうのは分かるけど、「殺人哲学」なのかはペンディングしたくなる。
 途中、自分たちに食事を与えてくれたインディアンを間違って殺してしまうシーンがあり、この事件でミッキーとマロリーが大ゲンカする。平気で人を殺してきて、それを隠そうともしない人物を描いていたはずなのに、なんでここで「かくまって食事を与えてくれた恩人を殺してしまった」と反省するのか、前後とのつながりがよく分からなかった。もちろんこれは「普通」の感覚であって十分理解できるのだけれど、「生まれながらの殺人者」を描くにあたっては、急に反省しだす理由が分からない。
 だからこの映画は「生まれながらの殺人者」を描いているのではなく、マスコミにつばをひっかけ、管理するものとしての法や刑務所を引っ掻き回すという、アウトロー・ヒーローを描いているにすぎない。だからこそ映画のなかでは、ミッキーとマロリーが世界中の若者から熱狂的に支持されるというシークエンスが繰り返しでてくるのだろう。最後の脱獄シーンで、ミッキーたちがどれだけの数の人間を殺そうと、その大量の死はよくあるヒーロー物のフィクショナルな死でしかない。
 自分の関心から言って申し訳ないけど、「ナチュラル・ボーン・キラーズ」というタイトルにだまされた気分です。


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