映画評

 例によって長い文章ですが、「ドッグヴィル」の映画評アップしておきます。半分メモ書きみたいだけど、放置すると腐りそうなんで。ネタばれ注意でございます。しかし、映画評を書くと、自分のなかでなんとなくお役目をはたした気分になるなあ。ま、いちおサイトの主旨だからね。
 
 ところで、「報道ステ」なんとなくみました。まりたんがいなくなって、嘆いている知り合いが多いだろーなーとぼんやりと思いました。

映画評」への4件のフィードバック

  1. 岡田

    僕はですね、高校くらいのときに「奇跡の海」とか「ダンサー・インザ・ダーク」を観て、ちまたで言われてるような主人公の遣り切れなさに対してただただフラストレーションを溜めてたんですよ。おいおいひどいじゃないか、そんなこと映画でしてどうするんだ、なにかしら観るものにも出口を与えてくれなきゃ困るだろ、って。まあこの両者の映画にもちゃんと出口はあって、キリスト教の背景を理解していない自分がわからないだけかもしれないのですが。
    でもまあ「ドッグヴィル」観るための予習にとまた最近見直したのですが、そこまで嫌に思わなくてもやはりまだ煮え切らないところはありました。
    でも、「ドッグヴィル」はラスト、あそこまでやっちゃうんですよね。「ダンサー」のセルマは、確かに権力の後ろ盾がないからあの最後をどう回避することもできなかった。でもグレースは、それがあるから回避することもできるし、自分が立場をからっきし逆転させることもできる。この展開がすごいですよね。ある意味物語のルール違反です。
    それで僕は、「ドッグ」の最後で、とてもとても爽快感を味わってしまったんですよ。「奇跡」から積み立てられていたフラストレーションを一気に崩されたようで、カタルシスのようなものを得ました。
    まあそうだよな、いくら辛抱強くとも、慈悲深くとも、誰だってあそこではああいう審判を下すよな、俺だってそうするよ、ははは。みたいな。
    でも長いエンドロールとともに、なにかぐつぐつ煮え切らない部分と、自分の感情に対する不信感と、出処のわからない自己嫌悪な気持ちがわいてくるのですよね。
    たぶんすごくすっとんきょうな顔してボーとしてしまったと思うんです、映画を観終わったあと。
    そしてふと我に返り、ぞくぞくっとします。
    どこかでその顔を見てほくそえんでるラース・ファン・トリアーがいるみたいで。
    やられた、って感じです。

  2. kiryn

    岡田さん、たくさんのコメントありがとうございます。わたしはトリアー監督の作品って、ほかのをみていないんですよね。今回のをみて、他のもみなきゃと思ってます。
    岡田さんのコメントは、これまでの作品を通した上でのものだから、あの最後がフラストレーションのカタルシスになったという意見はーー見てないので賛同も否定もできないんだけどーーすごく興味深く思います。
    でもあの終わり方じゃあ、スカッとする類のものではないので、カタルシスを感じてしまうと、多少自己嫌悪が入る、のかもしれませんね。
    わたしはかなり最後まで突き放した見方をしてたんですね。感情移入できなかった。まあ映画自体の語り方のせいもあるだろうけど。グレースがなんであれだけ虐げられるのを受け入れているのか理由が分からなくて、何者なのかがすごく気になった。彼女に比べたら、トムなんて妄想が先行する自意識過剰な小物ですよね。
    最後で彼女の行動原理が明らかにされたとき、やっぱりわたしもパパ・ボスと同じで、彼女のほうがもっと傲慢だと思いましたよ。あれは、一生懸命つくしたのに屈辱をなめさせられた人間が、キレてああしたのではないですよ。彼女がああも屈辱を受け入れていたのは、本当の意味での「屈辱」ではなかったからでしょう。最後の彼女の決断は、感情によってではなく、論理の裏づけがあってなされたものだから、その意味ではいちばん冷酷。
    トリアーに対しては、今回のをみて、確かに気になる監督にはなったけど、人間の描き方があまりに高飛車なんで少々辟易するところもあります。これだけが彼のすべてではないだろうと思うので、ぜひ別の側面もみてみたいというところです。

  3. 岡田

    わー、こちらこそ長いレス、ありがとうございます。
    そうですか、kirynさんは彼の他の作品、観ていないのですね。
    「奇跡」と「ダンサー」は有名なのですが、「イディオッツ」というもうわけわかんない傑作もあるのでお忘れなく。それ以外初期の作品は僕もまだ観ていません。
    それで、つまりなぜに僕がラスト気持ちよくなってそれで自己嫌悪になってしまうかというと、kirynさんの言うように、グレースがただの仕返しをしてああいうことをしたという単純な意味のラストではないからですよね。
    単純に、例えばあの村の住人の誰かがなにか裏切りでも、悪さでもして同じような状況追い込まれ、復讐心と執念から黒魔術を使えるようになって他の村人全員を呪い殺してしまう、というのとはわけが違うんです。
    そう、彼女はボスパパに抗うためでもあり自分を正当化するためでもある倫理の裏づけがあったからこそ、最後まであの虐待を受け入れていたのですよね。
    しかし彼女のそのある意味強さは、理論武装した人間の、状況を客観視することで自分の置かれている過酷でリアルな現状を受け入れるわけでなく、ある意味偽善的で責任転嫁的な独自の倫理観なのですよね。
    それで性質が悪いのが、倫理というものは観念であって、言葉でもあるから一般化しやすいものでもある。よほどそれは主観の感情より性質の悪い力、権力というものになりかねない、と僕は思いますね。
    ちょっとまとまってないのですが、kirynさんがグレースの倫理に裏付けられた行動に対して、「冷酷」という言葉を使った意味に対して、僕は個人的にそのようなことなのかなと予想してみました。これは僕の考えでもあるのですが。
    kirynさんがなにゆえ、「感情的になってキレて復讐のためにああした」よりも、「倫理の裏づけがあってなされた」ことの方を“冷酷”だと考えるのか、そこに僕は興味があります。
    おそらく、いや当然とでも言うべきでしょうか、この映画を倫理という側面から切り開く行為をした時点で、語る側の私たちもなんらかの倫理観に左右されている、つまりは映画を観て考えさせられることがすでに倫理的な行動のはじまりであり、観客も知らず知らず共犯者にされているのですよね。そこからは逃れられない。
    彼を高飛車と表現するのは、すごく的を得て上手いなぁ、と思います。
    ちょっと社会学とかかじった大学生が、頭ごなしに個性とか人格とかを無視して人間の行動原理を粗雑に語ってしまう態度に似ているような気がします。自分に言い聞かせています(笑)。

  4. kiryn

    岡田さん、こんばんは。
    トリアーについていいたいこと、かなりたまってそうですねー。
    んーと、まずですね、グレースの決断を「冷酷」と書いたのは、彼女の「倫理」にもとづいてではなく、「論理」にもとづいて、と書いたつもりだったんですね。EthikではなくLogik。でも「倫理」でも間違いではないというか、グレースの思考と行動は彼女なりの倫理観をぬきにしては説明できないものがありますよね。だから、岡田さんのコメントはぜんぜん的外れだとは思わないし、むしろ問題のポイントをついているように思います、少なくともわたしにとっては。
    でもこの「倫理」って言葉がクセモノなんですよね。彼女を動かしている「倫理」が結局どういう性質のものなのかを見極めなくてはいけないのでしょうね。「ある意味偽善的で責任転嫁的な独自の倫理観」と岡田さんがいうように、どこか不遜さを秘めてある「独自の倫理観」なんですよ。これは何なんだろうと考えて行くと、やはりパパ・ボスとの関係が重要なのかな。ちょっと考えがまとまらないまま、だらだらと書いてしまいますが、、、。
    権力をもつ者は「犬」をしつけなければならない、さもないと「犬」は増長するから、というパパ・ボスの論理だけど、グレースはこの考え方に反発していたんですよね。でも彼女は、パパ・ボスの論理をちょうど逆さにしたことをドッグヴィルで体験してしまう。つまり「犬」はしつけないと増長する、ということを身をもって体験するのですよ。
    わたしは彼女の不遇さは彼女自身がひきよせたもののような気がしてならないんですよね。彼女の倫理観はパパの考え方反発するところから形成されていたけど、それはネガとポジの関係で、じつはパパの論理を超えるものではなかったというか。
    だから、彼女の犠牲的行為と彼女が自分の意志によって実行した殺戮行為は、一本の線上を右と左に振り切ったものであって、線そのものからは飛び出してはいない。すごく二元論的なんですよね。あれかこれかの世界観には、正義の仮面をかぶった冷酷さが生じやすいように思います。
    どういう形であるかは難しいけれど、線を飛び出すところに、偽善的ではない倫理なり救いなりを見いだせたんじゃないかという気はするのですが。
    だから、あの最後の決断のあと、彼女が殺戮行為と倫理観ともう一度つき合わせることがあれば、どういう風に考えるのか興味があるんですね。これは映画では描かれていない部分なので、それであの続きがみたいと思うわけです(トリアーが何を考えているかは知りませんが)。
    岡田さんが最初に書いてくれた、「奇跡」と「ダンサー」で「出口を与えてくれない」終わり方にずっとフラストレーションを感じていた、というのにとても興味をおぼえます。わたしは、出口がなくとも、悲惨であっても、人間存在の哀しみやどうしようもなさを書き込んでくれてあるような映画には心惹かれます。クストリッツァの「アンダーグラウンド」とか「パパは、出張中」、あるいはギリアムの「未来世紀ブラジル」、キューブリックの「バリー・リンドン」などでしょうか。トリアーはどうでしょう。見るのが楽しみです。
    あー、なんかコワイくらい長文レスですね。あんまり長いので、新しくコメント欄を設けましょっか?

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