2006年、独・仏・西
監督:トム・ティクヴァ
出演:ベン・ウィショー
レイチェル・ハード=ウッド
アラン・リックマン
小説を読む限りでは限界のある自分の想像力も、この映画は補ってあまりあるほど豊かに小説の世界を表現してくれた。18世紀半ばのパリの下町の活気ある様子、調合師の仕事に必要な道具、橋の上に密集する高層の建物(これが崩れるシーンもすごかった)、匂い立つような美少女たちの容姿など。 何より、最後に主人公が処刑されるはずの広場にぎっしりと人々が集まっている場面は圧巻だった。民衆や司教や裁判官や処刑人等々、この時代の公開処刑が都市の中心部(広場)で催されるエンターテイメント的な装置であることが伝わってきたし、何よりクライマックスの場面でもあるので、すごくおもしろかった。とにかく引用される知の豊かさに酔いしれることができる映像だった。
映画と小説の違いとして一点気になったのが、映画では、自分が無臭の人間であることに気付いた主人公が、匂いを作り出すその類稀なる能力によって、「普通の人間」になろうと努力し、その果てにあの連続殺人につながっていくという部分が今ひとつ描ききれていなかったように思う点だ。
人びとは無臭の人間である彼を忌避しつづけるが、奇蹟を起こす最高の香水を作り出すことで一転して彼にひれ伏する。しかし、最高の香水をもってしても、人々は彼自身を崇めたのではなく、彼の放つ香りの向こうに理想の何かを見つけてひれ伏しただけで、結局彼自身は相変わらず「空」な存在であり続ける。最高の香水ですら、彼にとっては無価値なものでしかない。−−小説を読んだときに感じたこの空虚さ・無意味さは、映像になると、主人公が最後にこぼす涙と追憶によって、どこか人間味や切なさを感じ取れる表現にも思えた。
(2007.03.11)
ついでに。昔書いた書評の再録。
もしも人間に体臭がなければどうなるか。あの人はいい感じの人だとか、いやな感じの人だと判断するとき、わたしたちは普通、その人の容貌や見栄えや服装などから判断しているのだろうか。
パトリック・ジュースキント『香水――ある人殺しの物語――』(文藝春秋、1988年)は「無臭」の男の物語である。無臭の人間とはどういう意味か。ひとに認めてもらえない、それどころか、その存在そのものが人を落ち着かなくさせるために誰からも忌避されるということだ。だから男はずっと一人だった。孤独がなんなのかも分からないくらいに一人だった。
無臭の男は、絶対的な嗅覚をもっていた。かれは匂いで世界を感じ取った。ありとあらゆる匂いを感じ取る嗅覚をもっていた。それで男は香水調合師になった。調合師になった男は、自在に匂いが作り出せた。匂いを操れるということは、つまり、なりたい人間になれるということだった。男は香水をつけることによって、人からどう見られるかどう思われるかを自在に操作できるようになった(だからこの本によると、あの人はいい感じの人だとか、あの人はいけすかない、とか普通わたしたちが視覚的に判断しているような事柄は、実はその人自身の発する匂いで判断していたということになる)。
男は最高の香水を作りたいという欲望をもった。最高の香水は、絶世の美少女の体臭から作り出されなければならないと考えた。最高の香水を手に入れるために男は犯罪に手を染める。天才調合師の手によって作り出された香水の効き目は絶大だった。彼はいまやなろうと思えば、神にさえなれただろう。だがそうはなれなかった。
一切の人間的なつながりをもたずに育った男が、香水によって、人々の好意や悪意を操作することで世界とのつながりをもとうとした。自分が操作するという形で、不器用におずおずと人間世界に入りこんでみた。だが関われば関わるほど、世界は憎しみの対象でしかありえないことが分かってくる。世界との距離を人工的に埋めようとして失敗した男は、世界に呑み込まれるように、この世ならぬ最期を迎える。いや、世界に存在することに倦怠した彼は、自らをその香水によって消滅させてしまうのだ。
最後までこの男が何を考えているのかはよく分からないし、親近感を抱くのも難しい。だが、世界を鼻から知るという設定は奇抜で驚かされるし、読み物としての楽しさを十分に堪能できる作品である。
ha