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本の整理

 ひきつづき、掃除の話。
 本棚をひっくり返していると、梅棹忠雄氏の有名な『知的生産の技術』がでてきて、ついつい読みふけってしまった。だいぶ昔に買ったようで、読んだ記憶はあるんだけど、読んだだけだったんだと思う。あらためて読み直してみると、とくに第5章の「整理と事務」など、今まさにわたしが求めていることだーと、妙に感動してしまった(よーするに、紙の山をどうするのか、どこに何があるのかちゃんと把握できているのか、という問題)。
 本棚の整理も、この本を読んでもういっぺんやりなおして、背表紙がそろっているとかいう見栄えにこだわらずに、テーマごと、著者名ごとに並べ替えてみた。ぐちゃぐちゃだけど、なんとなく賢そうな本棚になった。でも「本を横にしてはいけない」という提言を守るのは難しいなあ。世の中の蔵書家に比べればぜんぜんたいした量じゃないんだけど、それでも、見やすい・取り出しやすいを優先すると、本棚のスペースがあっというまに足りなくなる。結局、すきまに本を押し込んでいる。
 ともあれ、この本も、前に読んだはずなんだけど、あまり内容を覚えていなかった。自分の必要性がなければ、本の内容も生きてこないものなんだなあと思った。本自体は家庭内コンピュータが一般化する前の時代に書かれたものだけど、カード式の記録の話なんて、コンピュータにダイレクトにつながる話ではある。でもこの本を読んでいると、自分がいかにコンピュータなどいろんなスキルを使いこなしていないかがよく分かる・・・。

本の処分

 ひとつひとつはたいした分量ではないけれど、数・量がふえるととんでもなく圧迫感を増してくるのはなーんだ? そうです、答えは紙です。本・雑誌の類にプリント・資料の類。ついつい机のなかだの本棚の奥だのにつっこんで、そのまま何年も放置してしまう紙の束。ときどき本棚の底が抜けたり、床が抜けたりするくらいには重量を増してしまう紙の山(つい最近珍事件がニュースになってましたね)。気がつくと、快適な生活からもシンプルライフからも遠くかけ離れてしまい、過去の自分の集積とともに生きている生活。こんな生活はいやだーと最近とみに思う。というわけで、現在、掃除モードに入りつつある。
 今回は思い切って処分の方向で考えている。問題はその処分の基準。自分なりにいくつか基準をつくってみた。
1.雑誌は捨てる。
特集がいいと思って取っているんだろうけど、今なっては古くなってて、懐古的価値しかない。あたりまえか。おまけに雑誌の切抜きとかスクラップとかも結構あるんだよねー。昔の自分ってほんとヒマだったのだな、と思う、、、てゆか、基本的に捨てられない性質なのね。
2.文庫本は選別して処分。
a.いっぺん読んだ、でももう二度と読まないであろう本
b.現代作家の本。存命中が基準。
c.古本で手に入れた本、装丁がぼろぼろになっている本。
逆に捨てられないものって、この作家には愛着を感じると勝手に自己呪縛しているやつだなあ。もう二度と読まないだろうに、それでも捨てられない本たち。いずれもっと圧迫度が増せば、この自己呪縛も解かねばならないときがくるかもしれない。
3.マンガも選別して処分。
マンガはできるだけ買わないようにしていたのだが、それでも増えている。しかも愛着があるものしか買ってないから、捨てられない! 文庫本より捨てにくいことが判明。うう〜。
4.辞書の類も捨てる。
とくに、かぶっているやつね。ドイツ語の辞書なんて、わたし何冊もってるの? 独日、英独、独独、、、ほとんどCD-ROMの辞書しか使ってないってのにさ。広辞苑もある。でも国語辞書はネット辞書しか使ってないし、ここ数年、広辞苑開いたことないぞ。捨てよっかなー。六法全書もあるなあ、これもいざというときはネットを頼ることにして処分するか。 
 残るはハードカバー系。これはちょっと厳しい、処分基準も難関コースだ。圧迫度しだいで検討することにしよう。それより、問題はどこに捨てるかだ。
1.ゴミとして処分。
2.叩き売りでブックオフ。
3.アマゾンにだして気長に売れるのを待つ。
1、2あたりが現実的ですかね・・・。アマゾンも買うばかりで、売ったことないしなあ。これってどうなんだろう。掘り出し物的なものはネットにあげたほうがいいのかなあ。しかしそれを判断して選別するのも面倒だなあ。うーん、とにかく、ちゃっちゃとやってしまおう。

中島敦『南洋通信』

 中島敦『南洋通信』を読む。
 中島が1941年に南洋庁の官吏として赴任したパラオから、おもに妻にあてた手紙。ハイビスカスやバナナやパパイヤやレモンやジャスミンが実る自然、波もたたず真青に透き通った海に泳ぐ熱帯魚の姿、そして島民たちの素朴な生活といった、南洋の美しくも気だるい風景を写し取りながら、文面には強い望郷の念、残してきた妻と幼子への思い、本土での四季折々の生活に対する追憶、そして遠いところに来てしまったことへの後悔の念がにじみでている。
 戦前の日本政府がとった大東亜共栄圏という、今のわたしたちにとってはあまりになじみの薄くなってしまった政策がなお意味をもっていた時代に、中島が植民地の宗主国側の人間として南洋に赴いていたという事実に軽いショックを覚える。あらためてこうした書簡類を読むと、彼について抱いていたイメージの修正をうながされるようなかんじだ。日本政府の南洋政策の無意味さを指摘する箇所が散見できて、これはこれで非常に興味深く思った。
 もともと好きな作家だけど手紙を読んだのははじめてだ。おかしな話だけど、読んでいくうちに、まるで自分がその文章を書きつづっているような不思議な感覚になった。読んだことはない文章のはずなのに、すでに読んだことがあるような感覚。自分の感覚にひどく馴染む文体なのだろう。おこがましくはあるが、もし自分が彼の立場に置かれたとしたら、きっと同じようなことを感じ同じようなことを考えるのでないかと、そんな気がした。

逃避という名の読書

 道路脇の雪柳が真っ白に咲き誇っていた。だんだん精神的に余裕がなくなってきて結構ツライ日々。『ドッグヴィル』を見に行きたいのだが、半分あきらめモード。
 クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読む。映画は前にみていて、なかなかおもしろかった。ダニエル・ディ・ルイスのトマーシュがハマリ役だった。ジュリエット・ビノシュも一途な田舎娘がヘタなファム・ファタールをするよりずっと板についていて、いいかんじだった。映画の後半の「プラハの春」のシーンが、見た当時は意味がよく分からず、恋愛と政治の関係を咀嚼できないままに残った。
 本はずっと本棚に眠っていた。いつ買ったのか覚えていない。読むとすごくおもしろかった。クンデラのこだわる「軽さ」と「重さ」がテクストの語りそのものにもついてまわっていて、時に蓮っ葉なまでに軽くなりながら、気がつくと、人間の奥底を垣間見せるような深みにまで到達してしまう。小説を読むときにはあまり用いない付箋を片手に読みすすめてしまい、読み終わるとあちこちに付箋が張り付いていた。
 それからカルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』も読み始めている。これもずっと本棚に眠っていた。読むとおもしろい。読書好きにはたまらない実験的小説、の気配。
 わたしはいつも本を並行して読むクセがあるが、ついでに森安達也の『東方キリスト教の世界』も読んでいる。森安さんの『近代国家とキリスト教』という本がとてもおもしろく、その続きの感覚で読む。でも初心者向けのようなそうじゃないような、とにかく専門用語の意味がわからない。注も原典を示すのが多くて、わたしには歯がたたない。リーゼンフーバーの『中世思想史』が、事典の役割を発揮している。この本も事典代わりにしようと思って買ったんだけど、読むとおもしろくって、つい読んでしまっている。
 以上、最近の逃避でした。逃避と分かっていながら読む本は、何ゆえにこうもおもしろいのだろうか・・・。



『結婚の条件』

 ここのところ年始年末並の暴飲暴食の日々がつづく。先日京都で飲み会。基本的にそんなに飲めないわたしは普段は食にまわるのだが、酔っ払った不良中年ズの「自堕落な生活をやめられない、そんな自分に対する愛着と嫌悪」みたいな話がグルグルまわるうちに、わたしもキャパを超えて飲んでしまい、店をおいだされるころには二日酔い状態になっていた。二日酔いというのは次の日の朝にくるものかと思っていたが、そんなすぐにも来るものなのね・・・。でも酔っ払った不良中年はキップがいいので只酒になった。ラッキー、でも頭痛ぇ。
 小倉千加子の『結婚の条件』を読んだ。おもしろくて一気読み。知人が雑誌『STORY』の「創刊号」を「持ってない!?」と人にききまわっていた理由がやっと分かったよ〜(「秋保仁美さんの謎」という、『STORY』の禁忌コードにふれる話があるらしい。つまり「美貌と若さ」を「カネ」と交換した「結婚」契約が、40代に入ってくると確実に(女に不利に)バランスを崩しはじめて綻びだすという物語。でもオブラートにくるまれた語り方で、さっぱり意味が分からんのだという)。あと、サイバラの亜流とすらも思えないクラタマに、きっちりツッコんであったのも明快でよかったが、クラタマのその中途半端さが支持されている理由だとなると、それもそうかなという気がする。ともあれ、ここで挙げられている雑誌・本の類、ちゃんとチェックしたくなった。『VERY』とか圏外だから、今ひとつ「三浦りさこ」的生き方ってワカランのだわ。

ヘッセ『メルヒェン』

 最近お気に入りの喫茶店をみつけたような気がする。前からしっていたお店だけど、休日はいつも混んでいたから入ってみようとは思わなかった。でも平日の夕方は、お茶の単品の値段が安くないせいか、空いている。禁煙席があるのもうれしいし、紅茶がポットサービスでくるのもうれしい。入り口付近の四人がけの広いテーブルに座って、本を読んでから帰る。
 隣の人が近かったり、音楽がうるさかったりすると、本が読めない。わたしはきっと集中力が足りないんだと思う。
 ヘッセの『メルヒェン』を読んだ。タイトルから想像するのとぜんぜん違ったけれど、とても美しい文章が連なっていて、なんだか泣けてくる。「ファルドゥム」の、世にも美しい願い事をした少女たち、空に消えたヴァイオリン弾きと山になったその友人、「アヤメ」の、失われた故郷を探す男の郷愁。切なさと儚さとが文字になって滲んでくるようだった。

ichとdu

 昨日は忘年会だった。新しくできたお店で、鍋+飲み放題で3000円ほどと安くてうれしい。値段のわりにはそこそこおいしい。やっぱり鍋はいいなあ。メンツの一人が高コレストロールを気にしていて、彼が強烈に鍋を押してきたので、わたしも便乗。やっぱ揚げ物づくしは食がすすまん。
 ドイツ語のエッセイを読んでいたら、ドイツ人は自分を責めるときに「おまえはなんてバカなんだwie dunn bist du」と自分のことをdu(おまえ)と呼ぶとあった。これに対して日本人は「オレはなんてバカなんだ」と自分のことをich(わたし)と呼ぶという。いわれてみたら、わたしも自問自答するときはichで考えているようだ。
 モノローグなんだけどダイアローグの形式をとる、というのは、小説やマンガでも時折みかける形式だ。『カラマーゾフの兄弟』ではイヴァン・カラマーゾフの元を訪れて彼の言動を嘲笑うのはもう一人のイヴァンだったし、萩尾望都の『残酷な神が支配する』でも、自分自身を欺き納得させようとするイアンの偽善性をその都度突っつきまわすのは、もう一人のイアンだった。幸村誠の『プラネテス』でも、主人公の煮詰まる野望と孤独をひっかきまわすのはもう一人の自分だった。考えてみれば、新約聖書でのイエスを誘惑する悪魔の話は、これまたイエスと悪魔のダイアローグの形式をとったモノローグなのかもしれない。探せばもっと事例はあるようで、ちょっとおもしろい。

ビール

 昼間の暑さに体がついていかなくて、ほとんど仮眠しながらやり過ごしている。でも夜はずいぶん涼しくなったので、夜から活動。
 今日はイケてない阪神のニュースをみながら、キリンの「まろやか酵母」を飲む。おいしかった。どうもわたしは麦芽100パーセントのビールが好きみたいだ。日本のビールってエビス以外、正直美味しいと思ったことなかったのだが、選ぶ基準がはっきりした。なんとなく自分が分かったような気になって、一人で納得する夜だった。
 推理小説がらみでホームズの『最後の挨拶』とネロ・ウルフの『料理長が多すぎる』を読む。単に家に転がっていた推理小説というだけなのだが。ホームズはまあ短編だし、やっぱりおもしろい。ネロ・ウルフは初めて読む。ウルフの旦那の愛すべきキャラクターは非常に味わい深かったし、料理に対する好事家の愛着もおもしろいし、1930年代のアメリカという舞台背景も興味深かったが、なんせ登場人物が多すぎて頭のなかがワケわからん状態になってしまった。推理小説を読みなれてないせいか?

永遠の少女?

 嶽本野ばらの『カフェー小品集』をぱらぱらと読む(読んでる途中)。友人は野ばらさんをさして、「吉屋信子や森茉莉の路線をひきついだのがオトコだったというあたり、21世紀だわよねー」と見事にまとめてくれたが、まったく同感。
「君も僕も、もう蒼い季節など乗り越えてから幾久しいというのに、どうも思春期の感情が抜けきらず、というより年を経るごとにその感情が増大していくタイプのようで、蒼さを八分の諧謔と二分の熱のバランスで愉しむことを常としておりました。」(10頁)
などという文章に思わず笑ってしまいました。そんなに冷静でどうする。21世紀のオトメは現実から飛翔して「わたしの美の世界」を創り出すには、幾分ナイーブのようで、現実の生活臭漂う生命力に抵抗するには、狂気のエッセンスが少々足りないのかしらん。

墜落

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 風邪なのか、体調すぐれず。
 神原正明の『天国と地獄』をだらだら読んでます。ヒエロニムス・ボスの研究をしている方ですね。おもしろいんだけど、もう少しカラーで絵画を載せてほしかった。
 「アンチクリスト」論がまとまって読めてよかった。反キリストってなんだろーと常々思っていたので。ドストエフスキーとか読んでいると、関連してくるから。
 「魔術師シモン」と反キリストが一緒に描かれる図像もあるらしい。どっちも墜落する存在なのですね。魔術師シモンって、もしかしてダニロ・キシュの『死者の百科事典』に収められている話? あれはすごくおもしろかった。魔術師がものすごい勢いで天に昇っていって、こんどはものすごい勢いで墜落してきて、地に叩きつけられるというだけの話なんだけど。