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なつかしアニメ〜?

 ガンダム・ファンが急に増えたような気がする。というか、まわりにいるやつが、ガンダムを語らせたらオレ止まんないよ?とか、ガンダム名言集いえるよ?みたいな連中だったりしたことに最近気がついた。こどもの頃に見て大いに感動して、大人になって小金がたまって、ゲームソフトとかを買って、あらたに感動しているらしい。ザクが後ろからガーと突っ込んできてそれがものすごい迫力で云々といわれても、なんのことやらさっぱり、でございます。
 ガンダム見てたけど、ストーリー性があったからおもしろかったけど、そういう「なつかしさ」は別に感じないなあ。じゃ、おまえにとって影響をうけたアニメは何なんだ、と問いかけられて、うーんと考え込んだ挙句、「バビル二世」と答えた。あの、砂漠で学ラン着てたやつ?といわれて、そうそうと答える。学ランはどうでもいいんだけど、砂漠に住んでて、言葉を喋る黒豹を「しもべ」にしているというシチュエーションがよくない? ほかのロボットとかは美的にいただけない形態だったしアホっぽかったけど、あの黒豹は賢そうだった。でもちょっと心配性で執事みたいな性格だったような気もする。その辺はもう少しクールなしもべに改造して……いや改造してどーするんだ。
 なんにせよ、オレにガンダム語らせたら連中は、目を輝かせて語りはじめたりしてとにかくうっとおしいので、今度から無視する。ガンダム禁句にする。
(Monday, January 15, 2001)

眩暈

 はっきり覚えてはいないけど、たぶん5歳くらいのとき、じぶんは永遠にこどもであるような気がしていた。5年間生きてきてさらに5年生きるとすると、それはわたしにとっては倍の長さの年月なのに、父や母は5年生きても30数年+5年、祖母にいたっては60数年+5年にしかならないのだ。こっちは今まで生きてきた年月のまったく倍も生きるというのに、おとなにとってはほんの数年がすぎるだけというのが、なんだか不思議だった。
 5歳のわたしが10歳のわたしを想像するのは、眩暈のするようなことだった。わたしはいずれ10歳になるかもしれないけれど、今まで生きてきたのと同じ長さをさらに生きなければ10歳にならないのだと思うと、それは気が遠くなるような長さだった。一日も一つの季節も一年も、とても長かったから。
 こういう眩暈の感覚はこどものときはしょっちゅう感じていた。病気になって昼間から布団に寝かされているとき、なんとはなしに天井の木目をじっと見ている。そのうち木目模様がぐにゃりと空間をはみだしてくる。それは吐きそうになるくらい気持ち悪い感覚だった。いったんそういうことがあると、いやなくせに、やみつきになったようにその感覚を呼び戻そうとする。それで、ぼーと天井の木目をみつめて遊んだりしていた。
 10代のころにはそういう遊びはしなくなったように思う。もちろん、年月の感じ方も、こどものころのようには長くなくなった。
(Monday, January 08, 2001)

お正月の過ごし方

 お正月には凧上げて〜独楽を回してあそびましょ〜♪ でもこのお正月は読書三昧で過ごすのです。図書館でいっぱい借りてきたものね。トルストイでしょードストエフスキーでしょーメルヴィルでしょーエーコでしょーって、こんなに読めるか!っていうくらい。でもテレビを見ない分、読書と映画鑑賞に時間を当てたいデス。お正月映画はけっこういいものがテレビ放映されるようだし。
 映画といえば、kirynはドイツ語を習っているのですが、年末の授業のとき、先生のコッパー氏がドイツ映画のビデオを貸してくれた。1944年のナチス時代の作品で、世相の暗いムードを吹き飛ばすために作られたコメディだ。戦意高揚物ではなくてコメディというあたりが驚きだったんだけど、随所随所がやっぱりナチっぽいんですね(ワイマール時代のギムナジウムが舞台なんだけど、ワイマール的な教師は軟弱で怠惰、ナチの党員になっている教師は規律正しく清潔、みたいな)。
 まあ、ともかくそのビデオをコッパーが貸してやるというから(←多分もって帰るのが面倒くさい)、どうしよかなあと思ったんだけど(←多分見ない)借りることにした。で、
“Danke schoen. Ich lerne Duetsch noch mehr aus diesem Videofilm.” (ありがとうございます。このビデオでもっとドイツ語勉強します)
と殊勝にも言ったのに、
“Aber dieser Film wurde in der Nazizeit gedreht. Moechtest du militaerisches Deutsch lernen?” (でもこの映画はナチ時代の作品だよ。キミは軍国主義的なドイツ語を覚えたいの?)
って笑われた。く〜。いっそのこと「軍国主義的なドイツ語を喋る日本人の女」、というあたりを狙うか?
(Monday, January 01, 2001) 

ソ連大使館の謎

 知り合いのサンチョ・パンダ氏が大学に入った80年代半ば、彼は第二外国語としてロシア語を選択した。なんといってもバブリーな時代、ロシア語を選択する学生はそう多くはなかった。だが硬派な彼は時代に逆らって、マルクス・エンゲルスを勉強したいと思っていた。ここで、んん?と思う人も多いでしょう。だってマルクス・エンゲルスを勉強したければドイツ語を勉強すればいいのであって、わざわざロシア語を勉強する必要はないのだから。でも彼はそういう事実をただ単に「知らなかった」のですね。しかもパンダ氏の場合、マルクス・エンゲルスをカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスではなく、「マルクス・エンゲルスという名前の人」だと思いこんでいた、という。そりゃないでしょ。ちょっとイタすぎるぞキミは。
 ともかくどういう経緯であれ、パンダ氏はロシアに関心をもち、専門過程に上がってからはロシア史研究の教授のゼミを選択することになった。ゼミにはゼミ旅行というものがついている。たいがい研究会名目のただの旅行なのだが、パンダ氏のゼミでは、まじめにも当時のソ連大使館に見学に行くこととなった。ただ、日程の都合がうまくいかなかった彼は、あとから合流することにしたのだが。
 さて、当日ソ連大使館に一人で乗り込んだパンダ氏は、コワモテのガードマンの横をあっさり通りぬけ、受付嬢のいるところまでやってきた。(けっこうスンナリいくもんだなー)と内心拍子抜けだったらしい。受付嬢に英語で
「わたしはこういうものである。あなたは知っているか、プロフェッサーXが学生とともにここに来ていることを。わたしは彼らに会う必要がある」
と用件を述べた。だが返ってくる返事は
「Pardon?」
ばかり。通じないのだ、彼の英語が。パンダ氏はあせった。あせると英語はさらに通じない。そのとき、何かトラブルが発生しているらしいと気づいたデカいロシア人が奥のほうから大股に近寄ってきた。彼はどうやら日本語を解するらしく、パンダ氏にむかって開口一番次のように尋ねてきた。
「亡命デスカ?」
なんでやねん、とパンダ氏は思わず心のなかでツッコんだ。80年代後半のこのバブル時代、ジリ貧のソ連に「亡命」しようとする日本人が何人いるというのか? その大使館員はそのように聞かねばならないくらい、「亡命」用件の訪問者がしょっちゅう来ているとでもいうのか? そもそも亡命ってそんなに気軽にできるのか? それともオレの容貌・態度・雰囲気がかぎりなく亡命者に近いとでもいうのか? ワケのわかんないソ連大使館の対応に、パンダ氏は、このままホントに強制亡命させられたらどうしようと、だんだん本気でこわくなったという。
 まあなんにせよ、その後すぐにソ連は崩壊したわけだから、ホント、「亡命」しなくてよかったよね、パンダくん。
(Tuesday, December 26, 2000)

白玉だんご

 かぼちゃ餡をつめた白玉だんごをシロップに浮かべていただく、というおやつ作りに挑戦した。とってもラブリーなイメージだったのに、餡をつめるのが意外に難しく、こういうのじゃないんだよねという代物ができあがる。もういちど挑戦して、今度は白玉粉にかぼちゃ餡を練りこんで丸めることにする。小さくて黄色いおだんごがどんどん作れて、満足。
 白玉だんごといえば、あまり思い出したくない思い出がある。小学校の家庭科の時間にこれを作ったのだが、初っ端からわたしは白玉粉に思いっきり水を入れてしまったのだ。白玉粉を「耳たぶの固さ」にするのは結構難しくて、ほんのちょっとの水でこねなくてはならない(今日も100gの白玉粉で作る予定があれよあれよという間に200gくらい消費してしまった)。思いっきり水を入れたのではじゃぶじゃぶの液体ができるだけで、だんごは一生作れないのだ。先生とグループの子たちの白い視線を浴びただけで、思い出すだけで、さむ〜…ってなる…。
 ところが、数年前に昔の友人と昔話に花を咲かせていたとき、どういう経緯かはわすれたけれど、この話がでてきたのだ。以下そのときの会話。
友達「家庭科で白玉だんごを作ったときがあったよね」
わたし「あった、あった」
友達「あのときあんたはキナコに水をいれたんだよね〜」
わたし「!?」
 「キナコ」に水をいれた?わたしが??それはわたしの記憶とチガウ〜と思ったんだけど、ひどい失敗をしたのはたしかだから、細かい部分では自分の記憶の方が間違ってるのかもしれない。でも、でも、キナコに水をいれるか、ふつう? いくらモノを知らないからってそれじゃただのバカだよ。
 こんなバカがいるという話をされてバカだねーそいつーとかいって笑い者にした挙句それは昔のあなたです、といわれたときのような狼狽でした。やっぱり白玉だんごは苦い味ね。
(Monday, November 27, 2000)

夏休みの宿題

 わたしはマンガによく出てくるように、夏休み最後の日に宿題ができてなーい!といって大騒ぎする子ではなかった。できるものはちゃっちゃと終わらせる要領のいい子だったと思う。でも苦手な宿題というのもやっぱりあって、わたしの場合それは理科の自由研究と工作だった。
 適当に親に宿題をやらせたりするのはみんなフツーにやることと思う。わたしも工作は父に作ってもらっていた。二つ年下の弟も父に作ってもらってて、父はまったく同じ型、同じ大きさの船を二つこしらえてくれた。わたしが小学4年生、弟が2年生のときのことです。まあ父には悪いけど、あまりたいした出来栄えでもなく、9月の新学期には教室の後ろの棚にわたしの小さなお船はひっそりと飾られていた。
 問題に気づいたのは、優秀作品を集めた提示棚に見覚えのある船が飾られていたのを発見したとき。もちろんしっかりと弟の名前が掲げられていた。「狼狽する」とはあのことですね。小学4年生にしてはたいした出来栄えじゃないけれど、小学2年生にしてはそこそこの作品として評価されているという事実に妙に感心したりもした。が、しかし、全校生徒が毎朝毎夕通り過ぎる場所に、わたしの作品とまったく同じ形なのに弟の作品であり、しかもその実態は父の作品という代物が堂々と展示されている現実は、具合が悪いことこの上なかった。 
 どうやってその展示期間をしのいだのか覚えていないけれど、だれにも指摘された記憶はないから、だれも気づかなかったのかな。だからといってわたしの場合、宿題は自分でやりましょう、と反省することにもならないのです。なぜかというと自分でやった宿題が相当悲惨である場合も多々あったから。人にやってもらったほうがまし!というくらい恥ずかしい作品になったりするんですね。そのお話は次回に。

夏休みの宿題2

 自分でやるより人にやってもらうほうがまし!というくらいの恥ずかしい作品を、わたしは夏休みの宿題として9月によく提出していた。ほかの人は標本作ってたり、ヘチマを自分で育てて、ヘチマ水とヘチマタワシを作ってきてたり――へー、こんなこと思いつくんだー、すっごーいと感心したりして。
 わたしは理科の自由研究が嫌いで、なにを実験すればいいのか、てんで思いつかない科学音痴な子どもだった。でも宿題だしやらないわけにはいかないし……で、まず、教科書をぱらぱらめくり、自分にでもできそうな実験を探します。そのときに選んだのが食塩の結晶を作る実験でした。塩だけじゃ寂しいから砂糖の結晶も作ることにして、塩水と砂糖水を天日干しにします。二、三時間たって水が蒸発したあとには、茶色ーい汚ーい塩の結晶なるものがお皿の上に残ってて、それをセロテープで画用紙に貼り付けて、はい終了――てな具合の「実験」。
 この実験はわれながらなんて下らないんだろうと、やってる最中から分かっていただけに、表紙に「自由研究」と書くのは恥ずかしかった。しかも9月に入ると、やっぱり後ろの棚に展示されて、誰でも閲覧できるようにされているのもいやだった。
 ちなみに、砂糖のお皿には茶色い染みがついていただけだったので、「砂糖の結晶というものはない」――これが「実験結果」として書いた結論だったと思う。