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夏の嵐

senso
1954年 伊
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
出演:アリーダ・ヴァッリ
ファーリー・グレンジャー


 一九世紀半ば、オーストリアに占領されたヴェネツィアで、伯爵夫人リヴィア・セルピエーリは、イタリア独立のために地下活動を続ける従兄弟ウッソーニ侯爵を影ながら援助している。愛国的なデモンストレーションは、ある晩、オペラ座でオーストリア将校たちを前に、イタリア国旗をあらわした三色の紙を天井桟敷からばらまくという形でなされた。この騒ぎのなか、ウッソーニ侯爵はイタリアを侮辱したという理由で、オーストリアの若い兵士フランツ・マーラーに決闘を申し込む。リヴィアはこの決闘をなんとか阻止しようとフランツに近づいた結果、彼と恋に落ちてしまう。
 許されざる恋を扱ったメロドラマとはいえ、この映画には観客を恋愛物語に陶酔させるような魔法は何もかけられていない。美しい伯爵夫人が脇目も振らずのめりこんでいく相手が、祖国を支配する占領軍の、出身身分もさほど高からぬ一兵士である点は、許されざる恋の設定として納得はできる。けれども、この男は自らをしか愛さぬナルシストで、虚偽の申告をして軍隊を抜けようとする臆病者で、盲目的に自分を恋するリヴィアに罵詈雑言を浴びせかけるような卑劣な人間である。リヴィアが一途になればなるほど、二人の関係は空回りしてしまう。とくに、中盤から延々とつづく壮絶な戦闘シーンと対比させられることで、二人の恋愛関係はますます痛々しく陳腐な様相を帯びてしまう。
 ヴェネツィアの街やオペラ座、貴族の豪奢な館といった舞台設定、鮮やかなオーストリア兵の軍服姿にリヴィアの美しい絹衣装と、ヴィスコンティらしい美学は十分に感じられる。けれども、退廃美をそれとして描ききるというよりは、監督の視線はどこかシニカルな気配を残している。フランツは美貌だけを頼りに生きる退廃した男だが、そうした人間を、軍事的なものに体現される「男らしさ」からの逸脱として断罪しているような面がみられる。また、最後、復讐の鬼と化したリヴィアが街頭でオーストリア兵士たちと戯れる娼婦たちのなかを通りすがる場面があるが、「娼婦と何ら違いのない伯爵夫人」という演出に、わたしなどはもうゲンナリしてしまった。痛々しい恋愛を大げさな状況設定のなかで語るから、主人公たちにも「粋さ」が感じられないし、退廃美の迫力のようなものも今ひとつ感じられないのだ。ちょっと消化不良気味、、、。アリーダ・ヴァッリは名演だと思うけど、その堕ち方の余裕のなさに、見ていてちょっとしんどかったのでした。
(16.aug.2004)
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キル・ビル

kill bill
2003年、米
監督:クェンティン・タランティーノ
出演:ユマ・サーマン
ルーシー・リュー
ダリル・ハンナ


 『バロン』や『カウガール・ブルース』や『パルプ・フィクション』に出ていたユマ・サーマンはけっこう好きだった。今回、こうした作品のときよりもだいぶ精悍な顔つきになっているけど、それはそれでいいと思った。なんといってもサムライだしね! それにしてもヘンな役柄が多い女優さんだよ・・・。
 いやもうフツーにおもしろかったんですが、かなりけったいな作品ね。映画の世界に入り込むには監督の趣味の度合いが強くて、ぜんぜん入り込めない、ヘンすぎて。やはりユマに日本語喋らせるのはヤメテほしかったな〜英語でいいじゃんよ、英語で啖呵きってるほうがカッコいいよ、ねえ? 見ているこっちのテンションがズレまくるのよ。
 とにかく横にタランティーノがついてて喋りまくっているかんじで、「お前ウルサすぎ」と心の中でツッコミいれても、後半にいけばいくほど喋くりたおしてくるので、もう笑うしかない。「ハイ!これお約束ね!ハイ!ここツッコミいれて〜」とかいちいち指示してくるみたいで、ウィークエンダーとか銀ちゃんとか思い出させるより普通に映画の世界に入りこませろー!といいたいかな、と・・・ま、言ってもムダだけど・・・。
(29.Mai.2004)
コメントいくつか。

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パッション

the passion of the Christ
2004年、米
監督:メル・ギブソン
出演:ジム・カヴィーゼル
モニカ・ベルッチ
マヤ・モルゲンステルン


 世界でもっとも有名な物語のひとつであるイエス・キリストの最期を扱ったもの。ストーリーは述べる必要もないだろう。まだ頭のなかが整理されていない状態のまま文章を書いているけど、かなり特異な映画だという印象を受けている。
 感想をいくつか。ひとつは、肉食文化圏の作品だなあと思ったこと。血しぶきと肉に食い込む鞭のシーンや釘の打ち込まれるシーンなどに、徹底した物質性と肉体性を感じた。殉教者の処刑場面がリアルに描かれていたりするキリスト教絵画を思い出したりしたけど、肉体に加えられる暴力の生々しさに、米・味噌・醤油で育っている人間には無理こういう描写!と少々悲鳴をあげそうになった。
 もう一点。聖書の記述を映像・服装・言語等々、細部にいたるまで再現しようとしている点や、12年の構想期間と30億円ともいう監督の私財で作られている点に、この映画を撮るためのギブソン監督の執念をひしひしと感じた。そのうえで、監督の主張を表現する映像そのものが、きわめてハリウッド的に作られていることが目をひいた。全編見せ場だらけというか、とにかくジェットコースターに乗っている気分になるほど飽きさせない作りになっている。モブシーンの熱気うずまく騒々しさに対して、イエスや弟子たちの回想、マリアたちのイエスを見つめるひたむきな眼差し、多用されるスローモーションといった静かなシーンが連続的にくりかえされる。メリハリが際立っていて、目を背けさせるほど残酷なシーンであっても目を背けることができないほどだ。Ecce Homo!がハリウッドのノウハウでもって効果的に映像化されているのだ。
 これはいったい何なんだろう、とあらためて思う。こういって誤解をまねかなければいいのだけれど、映画の主張にわたしはかなり原理主義的なものを感じた(わたし自身、教義や解釈のレベルで論じることはできないので、内容そのものよりも、この映画のもつ時代的意味に強く関心をもった)。事例として適切であるか不安だが、イスラム原理主義者たちが、金融システムやコンピュータを操ることで、テロ行為のグローバリズムともいうべき事態を展開していることを思い出した。そこには、ラディカルな宗教的価値観でもって現世秩序に徹底的に抵抗する姿勢と、最先端のテクノロジーやテクニックの融合という現象がおきている。ギブソンの映画にも、ある意味、こうした現象との類似的要素があるのではないかという気がした(あくまでも、ラディカルな宗教的価値観とテクノロジーの融合という意味に限定して)。
 ともあれこの映画には、ハリウッドのノウハウと、私財でこれを作ってしまえるような巨大な富を背景に、映画の内容そのものに解釈の余地をゆるさぬような、そういう迫力がある。「あれはこうでしかなかったのだ、追体験せよ!」と有無をいわせずに誘導されていくかんじがする。そう、まさに「追体験」なのだ(これはTDLなど、エンターテイメントに馴染んだわたしたちの身体に適合する形式だろう)。キリストの流した血と苦しみが人類の贖罪であるというテーゼを、物質的・肉体的な表現に徹することで「分からせてくれる」のだ。
 この映画は単なる「鑑賞」の対象としてすむものではないだろう。これほどキリスト教的なテーマを扱いながら、またそれゆえに日本の土壌では一般的に受容されにくいものでありながらも、エンターテイメントの枠を超えた反応を引き出してしまう点が興味深い。ここに、今の時代がどういう方向に向かいつつあるのか、介間見えるような気がするのだが…。
 ・・・あまりまとまっていないし、ニュートラルな立場などないよなと思いつつ書いてるから、どうも歯切れの悪い感想になってしまっている。自分がクリスチャンだったらこの映画をどう評価したのか分からない(この有無をいわせなさに、もしかしたら反発したかもしれない)。ただ、現代という時代のもつ特徴をこういう形で浮かび上がらせた問題作だとはいえるだろう。映画の枠組みをあっさりと越えていて、唖然とした。
(06.mai.2004)
映画を見た人・見る予定の人とただいまtopで意見交換中。
レス

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ドッグヴィル

Dogville
2003年 丁抹
監督:ラース・フォン・トリアー
出演:ニコール・キッドマン
ポール・ベタニー
ローレン・バコール


 トリアーが、アメリカに行かずにアメリカを撮れるのかという挑発に応えた作品、らしい。こうした宣伝文句にかなり洗脳されて見たところがあって、描かれているものはとくにアメリカに特有のものではないんじゃないか、というのが第一印象。人間社会のもつある種普遍的な「悪」が描かれていたような気がする。ともあれ、3時間にもおよぶ長さは、最後のシーンにもっていくための粘っこい伏線である。後半、グレース(ニコール・キッドマン)の扱いがあまりにも嗜虐的になっていくので少々うんざりしたのだが(あの独特のセットが余計にそういう効果をだしているんだよね)、最後の急展開はやはり見ごたえがあった。以下感想というよりは、自分なりの理解の大雑把な図式化。
村人=子どもや夫を愛し、病気を心配し、娘を介護し、パイを焼き、日々の労働にいそしむ普通の人びと。そして弱く、ずるく、欲望に忠実な存在。家族や隣人を愛することはできても、見知らぬ人間を同じように愛することはできない。困っている隣人を助けようという善意はもつが、条件付でないと実行できない。逆に、仲間ではないと判断した人間に対しては、際限なく冷酷になれる。この際限のなさは、仲間ではない者を家畜と同列にしか考えないレベルにまでいきつく。しかも良心の呵責などかんじない。良い行いも悪い行いも、自らの意志で行動するのではなく、他者の命令に従うのみ。ゆえに結果に対して自分の責任をひきうけることはないし、むしろ自分は被害者だと考える。「犬」。
トム=「犬」のなかでもインテリに属する。ほかの「犬」たちを誘導し、啓発しなければならないし、自分にはそうする能力があると考えている。その目的にそって計画はたてるけれども、結果はことごとく意図せざるものとなる。支配欲を強くもつが、実際のところそうするだけの力はもたず、より強い権力をもつ人間におもねろうとする。理想を唱える能力はあれども、その実、凡庸なほかの「犬」と大差はない。
ギャングのボス=権力者。権力をもつ者とそれ以外の者(=犬)とを同じ人間とはそもそも思っていない。権力者は「犬」をしつける必要がある。放っておくと噛み付くから。けれどもうまくしつければ、忠実に行動すると知っている。
グレース=物語のなかでもいちばん厄介な存在? 彼女の行動原理は「正義」と「寛容」か? 父(ボス)の権力思考に反発し、父のもとを飛び出してドッグヴィルにくる。彼女はそこの人びとに受け入れられるよう、自らの身体をつかって奉仕することで、父の論理を反駁しようとする。けれども彼女の期待は裏切られ、「犬」は「犬」であることを身をもって体験する。それでも、かれらの残酷さが弱さと平凡さに由来することを理解しようと努めるが、最終的には、弱さに対する責任をとらせるという論理で、「犬」を抹殺する。
 とくにこれがアメリカだ、ということもない。犬も権力者もインテリも、歴史のなかには偏在しているだろう。グレースのあのベクトルが急激に反転する様は異様な迫力をもつし、映画のなかの一番のハイライトだと思うが、こうしたメンタリティすらアメリカにのみ独特だとも思わない。「正義はなされしめよ、たとえ世界が滅びるとも」に近い感覚ではないか。ただ唯一、グレースが権力者の娘、しかも不法の権力者の娘であること、権力という後ろ盾に支えられた上で、正義を唱え実践することができる人間である点は興味深い。アメリカにこだわるならば、この点がもっともアメリカ的かもしれない。 
 ただ、この映画の人間に対するシニカルで突き離したような視点は、アメリカをつきぬけて、人間のもつ「傲慢さ」を浮き彫りにしている。最後にいたって、登場人物たちがしきりに「傲慢」という言葉を投げかけあうのが印象的だった。蜘蛛の糸が切れて、みんないっしょに地獄へ堕ちていくかんじで、救いもへったくれもない。ここで終わるのならこの監督の次の作品を見てやろう、絶対つくれよと思った。
(05.apr.2004)
オマケは「ドッグヴィル」みた人とのダイアローグです。こういう会話のはずむ映画はやはり見応えがあるってことですね。岡田さん、どうもありがとう!
オマケ1
オマケ2

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嗤う伊右衛門

2003年、日
監督:蜷川幸雄
出演:唐沢寿明
小雪
椎名桔平


 いわずとしれた四谷怪談だが、京極の原作に忠実に作られた映画だった。蜷川演出で、さすがに画面の密度は濃く、監督の細部へのこだわりはひしひし伝わってきた。
 伊右衛門とお岩の愛を描いたものだが、愛が「純愛」として成立つには、愛以外のすべてを顧みないという要素が必要だ。この意味で、伊右衛門とお岩の関係は十分「純愛」として受け止められる。
 浪人という立場にあって、伊右衛門はすべてに執着しないことで己の矜持を守っている。お岩は醜く腫れ上がった顔を隠しもせず、容貌の美しさという女に課せられる桎梏をあえて無視することで、己の矜持を保っている。地位も家柄も美貌も不確かなものでしかない以上、それらに執着しないことは、魂の純粋さと義しさを確信できる方途となるだろう。それは虚勢かもしれないが、彼らの虚勢の張り方自体に精神的な強さを感じた。
 たしかに伊右衛門もお岩も、おどろくほど強い人間である。わたしなどは、逆にこの強さにたじろいでしまった。こうまで独立した個性をもつ者同士でなければ、唯一の執着としての愛は成立たないものなのか。少々とまどっているのだが、思うに、迷うことのない人間というものは、人間像としてみた場合さほど深みや謎や怖さを感じさせるものではない、という気もする。
 原作を読んだときはあまり気にとめなかったが、映画をみたあとでは、伊右衛門やお岩より伊東喜兵衛のほうが印象に残っている。まあ、正しい人間より悪い人間を描く方がおもしろいのはあたりまえかもしれないが。伊藤の妙につるんとした端整な顔立ちと何をみているのか分からない不気味な目は、『悪霊』のスタヴローギンを思い出させた(彼もまた美男子であるが、まだ若いうちにその顔に内面の退廃が表れていたという)。不遜と傲慢と貪欲ゆえに退廃し、どのような悪事を重ねようとも決して満足することがない人間は、その精神の根底の虚無を垣間見みさせるがゆえに興味をそそる。
 ただ映画の重心が伊右衛門とお岩におかれているせいもあるだろうが、伊藤の精神の虚無と飢餓を感じさせつつも、今ひとつ明確に伝わってこなかった。伊右衛門とお岩の愛も純愛すぎて、逆にわたし自身はおもしろみを感じなかったが、伊藤に関してもどこか物足りなさを残したままである。映像の細部へのこだわりに比べると、人間像そのものへのこだわり方は少し平凡ではなかったか。
(27.feb.2004)
コメント少々

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復活

resurrezione
2001年、伊・仏・独
監督:パオロ・タヴィアーニ
ヴィットリオ・タヴィアーニ
出演:ティモシー・ピーチ
ステファニア・ロッカ


 3時間に及ぶ超大作だが、タヴィアーニ兄弟はトルストイの原作をしっかり読み込んだ上で作り上げていると思った。この長さは物語をいいかげんに扱わないためにぎりぎり必要な時間だったのだろう。登場人物を端折ったり適当に入れ替えたりすることもなく、原作で扱われていたテーマや印象に残るエピソードが映画のなかにきちんと書き込まれていて、そのあたりは見に行った甲斐があったというものだ。
 原作で扱われていたテーマの一つは、裁判や法や規則といった国家制度がいかに非人間的で残酷なものとなるかを描いた点だろう。生きるのに精一杯の貧しい人々たちが、杜撰な裁判の結果、簡単に監獄につながれシベリア送りにされてしまう。人間は平等ではなく、身分の違いが当然のように人間の扱い方の違いを正当化している――トルストイは『復活』において、こうした社会制度の残酷さと無意味さを弾劾していた。さらにそこから、人間にとって真に意味ある生とは何かという重い問いを投げかけていた。
 主人公の貴族ネフリュードフは、陪審員として関わった裁判の場で、かつてもてあそんだカチューシャが自分のせいで身を持ち崩して娼婦となり、無実の罪で殺人の罪を負わされてしまった現実をつきつけられる。彼は罪の意識に苛まれ、カチューシャに罪を償うために、彼女を釈放させようと奔走する。だが結局彼女を釈放することには失敗してしまう。彼は財産も土地もすべて放棄し、貴族社会の慣習と衝突し、そうした行為を他人に笑われながらも、自己の信念に命を捧げることこそが真に生きることの意味だと叫んで、流刑される彼女につきそってシベリアへと向うのである。
 
 映画の醍醐味は、小説では想像するしかない様を映像で体験できることだろう。シベリアへと囚人たちが送られる様子は、小説で読んでいてもその異様な酷さに強烈なインパクトを受ける部分である。鎖につながれた囚人たちが酷暑のなかを歩かされて、一人二人と熱中症で倒れていく姿、白い雪原を黒い機関車が走っていく様子、囚人となって流刑される父から離れようとしない小さな娘を、官吏が無理やり引き離そうとするシーン――映像はトルストイの筆致に沿って、国家制度に翻弄される人間たちの姿を写し取っていく。映画は、政治犯としてシベリアへ送られる革命家たちも登場させ、彼らとカチューシャとネフリュードフの関わりも描いている。とくに列車のなかで始まる政治犯シモンソンの語り――些細な罪で死刑になった二人の少年が、処刑台にひっぱられていく最後の状況を目撃したという話――は、国家制度のもつあっけないほどの非人間性が露にされる強烈な物語だった。こうしたエピソードが一つ一つ映画のなかに盛り込まれてあって、どこまで成功しているかはともかく、トルストイが云わんとしたことを映画は忠実に受けとめようとしたのではないか。
 小説のもう一つのテーマは、魂の救済、タイトルどおり「復活」に関することだろう。この点に関してはわたしは、映画監督と作家のあいだに解釈の違いがあるのではないかと思った。少なくとも終盤、映画はトルストイの結末には従っていない。
 トルストイの結末はたしか、ネフリュードフが、聖書の「山上の説教」に魂の平安への簡潔な答えを見いだすというものだった。人間のつくりだす諸制度の愚かさから離れ、そうしたものに一切関わらない境地にいたるところに、魂の「復活」の可能性が求められていた。トルストイらしいテーマではあるが、それゆえに、ネフリュードフのカチューシャに対する「愛」の関係もまた捨てさられていたように思う。性愛・恋愛という人間の情念は、つきつめれば魂の静謐には不用のものであろうから。
 この問題に対して映画はどう答えているのだろうか。「愛」の問題については、カチューシャとネフリュードフの関係をどのように描くかが鍵となってくるだろう。
 何よりもカチューシャという女性は、ネフリュードフの裏切りをきっかけに、一人の人間である前に娼婦たることを強いられた存在であった。周囲の人間も彼女を娼婦としてしか見ないがために、彼女はそうした存在でありつづけている(それでもカチューシャは、「娼婦」に投げかけられる有形無形の暴力に意志的な眼差しで必死に抵抗するのだが)。彼女にとって、別様にもありえた過去の自分自身を想像することは苦痛でしかなく、それゆえ別様でありうるような未来の自分自身を想像することも避けている。彼女は他の人間とのあいだに関係を結ぶ力を奪われ、自己を見失い続けている。
 ネフリュードフは、自分が彼女の転落の原因であることを知った以上、彼自身もまた他者との関係性を結ぶ力を失っていることに気づかざるをえない。彼はその事実を受け止め、カチューシャに関係性への信頼を取り戻させることが、彼女を救い、また彼自身をも救うことになると確信している。それゆえ彼は彼女から「偽善者」と罵られても、自らの信念のために、自らの魂の救済を求めて、彼女を救おうと奔走するのである。国家や社会の非人間性と対照的に、ここには人間性そのものに寄り添っていこうとする在り方が際立たされている。
 けれどもひとつのズレがある。ネフリュードフはこの人間性の救済・復活を、カチューシャとの「結婚」という形で実現できると信じている。ネフリュードフが求めているのは人間の関係性に対する信頼の回復であって、それは愛とは次元の違うもののはずなのだが、彼はそれを愛と混同している。もちろん、愛の成立によって互いを承認しあう関係は生まれるし、そこに擬似救済は成り立つだろうが、魂の救済という問題とは微妙にズレている。(愛という概念には、対等な人間同士の欲望の衝突、一種の闘争関係も含まれている。それゆえ彼がこれからも魂の救済を追及するかぎり、愛からもまた離れていかざるをえない。)ネフリュードフとカチューシャにとっては、対等な人間同士の関係性を修復することが先決であり、それが愛という形になるかどうかは、おそらく次の段階の話なのだ。
 ともあれ、ネフリュードフの献身によって関係性への信頼を取り戻したカチューシャは、あらためて彼と対等な位置に立つことになる。そのとき彼女は、彼が愛と罪の意識を混同していることを悟る。彼女はネフリュードフによって人間に対する肯定的な関係性を取り戻したことを受け入れているし、その心はネフリュードフを求めている。だからこそカチューシャは、ネフリュードフではなく政治犯のシモンソンと結婚するという拒絶の形で応答したのだろう。それは罪の意識からネフリュードフを「解放」し、罪の意識と愛との混同を伝えるメッセージでもあったはずである。
 終盤、カチューシャに去られ、ネフリュードフはひとり雪の中を呆然とさまよい、一軒の農家にたどりつく。そこで彼は、新しい世紀の始まりを今まさに祝おうと集まった人々に囲まれて、新世紀をともに祝おうと持ちかけられる。この場面で観ている者は奇妙な感覚にさらされる。20世紀の入り口にたつ人々の姿は、そのまま、つい数年前21世紀の入り口にたったわたしたちの姿と重なりあうからだ。
 原作の結末とは異なり、ネフリュードフは魂の静謐の境地を与えられてはいない。彼は途上に投げ出されたままで終わる。カチューシャのいるシベリアへ向けての道、モスクワへ戻る道、あるいは別の第三の道――信念に向って突き進んだネフリュードフの魂は、終盤、答えを与えられないまま、選択肢の前に立たされるのである。最後になってやってくる突然のこの宙吊り感覚が、20世紀と21世紀という時間を呼覚まされることと重なり合って、観る者の眼差しを不透明なる未来へと一気に投げ出させる。原作を超えて、映画が独自の色彩をもっとも強く放つ場面ではないだろうか。
(11.jan.2004)

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ロッタちゃんと赤い自転車

A Clever Little Girl Like Lotta
1992年、瑞典
監督:ヨハンナ・ハルド
出演:グレタ・ハヴネ
ショルドリン・グロッペスタード
マルティン・アンデション


ロッタにミア・マリーアにヨナス、そして一家の住む町並が、とにかくアストリッド・リンドグレーンの絵本そっくり! 絵本の絵はとても素敵だけど、それがそのまま写実化されててびっくりした。ベルイおばさんもそっくりなんだよねー。でもロッタがブランコにのるシーンが、花吹雪でなかった点は残念かな? あと食卓に並ぶスウェーデン料理の場面がたくさんあって、見ていて楽しかった(庭で食べるあのワッフルおいしそう! あとテーブルにこぼれんばかりに積まれたベリーのような果実。ジャムかなにかにするんだろうか。ロッタのキライなニシンの燻製やフィッシュ・ボールってどんな味? ニシン蕎麦はおいしいけどなあ、とついつい食い意地モードになってしまいます)。
 ロッタの怒りのひとつひとつは、いってみれば些細なことばかりで、微笑ましかったり苦笑いしたり。こういう子がいると大変だよなあと思いつつも、そのシンプルな真っ直さ・媚のなさは、やはり愛おしむべきものなのだと思う。家族や周囲の人々がロッタのとんがりかたを、呆れながらもきちんと受けとめている点がよかった。ロッタ自身の天衣無縫さの魅力だけではなく、周りの人たちがどうやってそれを受け止めているかが日常生活のなかに描き込まれていて、そのあたりがこの映画の良さかなと思った。
(29.jan.2004)
2 comments
『ロッタちゃんと赤い自転車』のコメントです。
残念ながらリンドグレーンの原作に触れたことがないのですが(物語の時代設定はどのあたりなんでしょうか?)、それでもこの映画はじゅうぶん楽しめました。映画の中に出てくるワッフルはベルギーのかたいしっかりしたものと焼き方が違うみたい。それにvollkorn(粗挽きの粒)が入った栄養十分もものじゃないかな、などと思わせますね。ニシンの燻製というのは、ドイツでも食べますが、おいしいです。
子供向けの映画やテレビドラマを見ていると、いつも大人に媚を売ってしまうようなところがどこかあるのですが、この作品は頑としてロッタの意地を通していてそこがいいですね。豚のぬいぐるみをテディと言い張ったり、てくてく一人で歩いていくときの歩き方が、なんともいえずよかった。ロッタを演じたあの女の子、かなりの名演でした。
by nozaki at /10:22 AM
nozakiさんこんにちは。お約束どおりロッタちゃんについてコメントをよせてくださってありがとう!(もしよければ、映画評のロッタちゃんのところにリンクかなにかをを貼らせていただいてもよろしいでしょうか?)
作者のリンドグレーンさんは1907年生まれ2002年死去と非常に長生きされてますね。『ピッピ』が有名だけど、『やかまし村』ほかたくさん書かれてますね。『ピッピ』の当地での出版が1945年以降、『ロッタちゃん』の邦訳は1960年代のおわりにはでているようです。となると、執筆時期が50年代 60 年代あたり、時代設定もおなじくらいではないかと思うのですが、どうでしょうね。煙突掃除夫さんが出てくるけど、いつくらいまであった職業なのかなあ? 今でもあるのかしらん?
食べ物がすっごく美味しそうでしたよね! ニシンの燻製はロッタちゃんはイヤだったみたいだけど。フォルコルンはドイツでもシリアルとかパンとかにたくさん入ってました。ライ麦の精製しきらないものですよね。こっちでいうと玄米とかそんなかんじかな。ワッフル・メーカー、実は手に入れたいグッズのひとつだったりします。ふわふわなものにはなるだろうけど。
ロッタちゃんにしろ、ピッピにしろ、リンドグレーンの描く女の子って、ちょっとハチャメチャなところがあって、そのへんがやっぱり好きですね。
by kiryn at /10:24 AM

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獅子座

Le signe du Lion
1959年、仏
監督:エリック・ロメール
出演:ジェス・ハーン
ヴァン・ドード
ジャン=リュック・ゴダール


 自称音楽家のピエールは、40歳間近になっても音楽で身をたてることもできず、自堕落な日々をおくる男。映画は彼に伯母の莫大な遺産が転がり込んできたことを知らせる電報から始まる。ピエールは自分の星座である獅子座の強運に感謝し、友人を呼んで一晩中どんちゃん騒ぎを繰り広げる。ところが電報は誤報、アパートメントも追い出されていたピエールは一夜にして住むところもない文無しになってしまう。おりしもパリはバカンスの真っ最中。金持の友人たちはみなバカンスにでかけて、助けを求める相手が誰もいない――。
 この映画、ストーリーは特別すごいものとは思わないけど、文無しになってからのピエールの落ちぶれようを執拗に撮っていく様がすごい。執拗、としかいいようがないような気がする。彼は友人の助けを求めてパリ中を歩き回る。服は汚れ靴底は外れ、空腹のあまり万引きしては殴られて散々な目にあう。多少自堕落であってもそれまで普通の都会人であったピエールが、あっという間に都市の底辺へ転落していく。住むところがなく、ホテルにも泊まれず、電車やバスにものれず、市場やお店で売られる商品も彼の手にはとどかず、友人の家を尋ねても門前払いをくらわされる。
 むしろ真の主人公はパリという大都会であって、ピエールが仲間とどんちゃん騒ぎをしていた頃にみせていた快楽と喧騒の街たる相貌と、彼が乞食へと転落していく過程でみせる「無関心」という都市の冷酷さの相貌の対照が、とにかく強烈である。最後のどんでん返しも観るものを安堵させるような類のものではなく、その意味でも、この映画の対象に対する突き放し方はかなりシニックだ。
 ふと思ったけど、カラックスの『ポーラX』の主人公ピエールがパリの街を彷徨する様子は、この映画が元ネタなんだろうか。
(28.jan.2004)
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天使の涙

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堕落天使 fallen angels
1995年、香港
監督:ウォン・カーウァイ
出演:カネシロ・タケシ
レオン・ライ
ミシェル・リー
チャーリー・ヤン
カレン・モク


 ウォン・カーウァイの作品のうち、「恋する惑星」はあまり印象に残っていない。ストーリーと映像にブレの少ない「ブエノスアイレス」のほうが好きだ。両作品の間に作られているのがこの作品だろうか。「ブエノスアイレス」に比べて、ストーリーと映像のミスマッチが気になった。いや、ポップさを売りにする分、ストーリーは重さや深さを追求したものではないし、その辺が監督の意図だということも分かってはいる。むしろ映像のごちゃごちゃさが気になったというべきなのかな。
 全般的に、60年代以降のフランス映画のエッセンスが濃厚な気がした。当時の映画のもつポップさや実験性や無意味性は、バックグラウンドがあってはじめて意味とインパクトをもつものだったと思うけど、その上澄みだけを言語と場所を変えて見せられると、背景のないままに軽さや単純さに徹することの難しさを、逆に思い知らされた。登場人物の描き込みもバラバラな印象を受けたままに終わってしまった。あえてそうした印象を狙ったとも思えない。登場人物たちは人とのつながりを求めて失敗をくりかえすのだけれど、そこに妙に感情的なディテールが加わるから、徹底して人間関係が分解されているわけでもない。中途半端な印象を受けた。
 どうもこの映画からは、流行のお店のディスプレイ以上の何かを感じ取ることはできないような気がする。映像の首尾一貫性のなさ(いろいろやってみたかったんだろうけれど)がそれに拍車をかけているような気がした。
(05.jan.2004)

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エリン・ブロコビッチ

erin brockvich
1999年、米
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
出演:ジュリア・ロバーツ
アルバート・フィニー
アーロン・エッカート


 元ミスコンの女王だけど、今では三人の子持ちで離婚していて無学で無職で貧乏なエリン・ブロコビッチ(ジュリア・ロバーツ)が、ひょんなことから弁護士エド(アルバート・フィニー)の助手になって、大企業相手に公害訴訟をおこし、史上最大の和解金を勝ち取るというストーリー。派手な裁判劇に進まず、和解へともちこんでいくあたり、実話に基づいているというのもうなづける。痛快サクセス・ストーリーといってしまえばそれまでだけど、エリンがとにかく現場に飛び込んで、公害が原因で癌におかされた住民たちの心の痛みに寄り添っていく姿勢が共感を呼ぶ。
 些細なエピソードのいくつかが心に残る。たとえば、仕事に走り回って疲れきったエリンをパートナーのジョージ(アーロン・エッカート)が労わろうとするシーン。君の小さな赤ん坊が今日はじめて言葉を喋ったよ、「ボール」って言ったんだ、とてもきれいな発音だったよ、すごく感動したよ――電話ごしに伝えられるエピソードにエリンが慰められていくのが見ている方にも伝わってきて、なんだか泣けそうになる。また、仕事に奔走し子供たちのことをかまってくれない母親エリンに反抗していた息子が、エリンの仕事を理解する場面。彼は、母が自分同じ年なのに癌におかされて苦しむ子どもやその母親のために闘っているのだということを悟って、母を応援することができるようになる――ソダーバーグって監督は、こういう心の襞や動きを丁寧に撮れる人だなあと、見ていて思った。予想以上に見ると元気になる映画でした。
(04.okt.2003)

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