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アンナ・マグダーレナ・バッハの年代記

choronik der anna magdalena bach
1967年、独・伊
監督:ジャン=マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ
出演:グスタフ・レオンハルト
クリスティアーネ・ラング
ヨアヒム・ヴォルフ


 これはかなり実験性の強い映画だ。音楽家による音楽家のための映画といってもいい。バッハの妻の視点から、バッハの生涯を「音楽で」綴るというもの。ふつうの伝記映画を期待してみると肩透かしを食らう。音楽的な解釈についてはCD−ROMの解説書を見てくれともう丸投げするけど、どうも、バッハの生涯を辿りながら、1960年代の古楽器音楽シーンをそのまま映像で保存するという二重構造になっているようだ。だからものすごくドライな作りで、感情的なものは殺ぎ落とされている。分かる人には分かる的にかなりぶっとばしている映画なので、「バッハ? けっこう好きかも〜」とかゆうレベルのわたしのよーな人間が見ると、かなりキツイ。
 ただ、見ていておもしろかったのは、バッハの行動範囲が、教会・大学・選帝侯の宮廷という3つを動いている点。このあたりは、18世紀的であるし、またドイツ的でもあるのかな。…あんま書くことないみたいですね。
(04.okt.2003)

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17歳のカルテ

girl, interrupted
1999年、米
監督:ジェームズ・マンゴールド
出演:ウィノナ・ライダー
アンジェリーナ・ジョリー
クレア・デュバル


 模範的なパパとママがいる裕福な家庭で育ちながら、自分を消してしまいたいという欲求に苛まれては自殺未遂をおこしてしまう神経症的な白雪姫と、背中を押してもらいたがっている弱い人間を死に追いやることなど平気でできてしまう、暴力的で支配的なシンデレラ――このふたりが1960年代後半の精神病院で出会って、互いに惹かれ、逃避行。
 けれども白雪姫はシンデレラの冷酷さについていけず、途中でリタイア。自分のお子様振りを悟ってからは、病院で模範的に振る舞い、退院する日を待つ。ところが退院する日にシンデレラが連れ戻されてくる。今度は白雪姫を追い詰めるシンデレラ。必死に逃げながらも、観察眼と文章を書く能力を与えられていた白雪姫は、「あなたはもう死んでいるから誰もあなたの背中を押したりはしないのよ」と、言葉でシンデレラの麻痺した心をえぐる。
 一歩だけ、わけのわからない少女時代の混乱を乗り越えた白雪姫は、そうして、友人たちにも死から再生への道を示して、もういちど外の世界へと戻ってくる――かなり脚色したけど、こういう話にもとれるかな、と。
 
 ぬけるように白い肌と不安そうに見開かれた黒い大きな瞳が印象的なウィノナ・ライダーは、神経質で繊細な少女の役をこなしていたし、アンジェリーナ・ジョリーもエキセントリックな役柄を圧倒的な存在感で演じきっていた。脇を固める少女たちも、主人公の二人を浮かび上がらせるのに十分なほど地味で堅実な演技だったと思う。
(04.okt.2003)

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サクリファイス

Offret/ Sacrificatio
1986年、瑞典・米・仏
監督:アンドレイ・タルコフスキー
出演:エルランド・ヨセフソン
スーザン・フリートウッド
アラン・エドヴァル


 この映画は高度に宗教的なテーマを扱った作品であり、たとえば聖書がそうであるように、一義的な解釈は不可能であろう。今回見たのは二度目だが、わたしがもっと歳を重ねたときに見たら、また別の見方をするかもしれない。それゆえ、以下のコメントは私的な関心からのコメントにすぎない。(しかも精神的にトーンダウンしているときに見てしまったので、稚拙で煩瑣な文章である。読まれる方はご注意を。無責任ですいません。)
 簡単なあらすじ。大学教授をしているアレクサンドルの誕生日、彼を祝おうと友人たちが訪れる。だがその日、世界は核戦争を始めてしまった。愛する家族(とくに喉の手術をしたために口のきけない息子(「こども」と呼ばれる)を彼は大切にしている)と友人と大切な家の上空を通過する爆撃機の轟音が鳴り響くなか、彼は核という圧倒的な暴力に根ざした恐怖に捕われる。昼間、神を信じてはいないと郵便配達夫のオットーに語ったアレクサンドルは、その夜、「この動物的な恐怖から救ってください、もし救ってくれたらわたしの愛するものをすべて捧げます」と神に祈る。そのあとオットーが彼のもとにきて、「たった一つ方法があります」と、魔女マリアの元にいくことを勧める。アレクサンドルはマリアの元に行き、涙を流し嗚咽しながら彼女の慰撫を受ける。彼が目覚めた後、世界はまるで何事もなかったかのように平穏なままだった。アレクサンドルはあの原初的恐怖から解放されたことを知る。そして彼は神との約束を実行し、大切な家に火をつけ、彼自身とその愛するものを犠牲として捧げるのである――。
 この映画をみると、人間には二つの側面があるということが分かる。ひとつは、人間とは驚異的な科学的知力を発展させながら、戦争という有史以来絶えることのない行動パターンをくりかえす生物であるということ。アレクサンドルは、人間の知力の発達に倫理的能力が追いつかない事態にいらだっていた。そのうえ核戦争が勃発すると、彼は「動物的な恐怖」にとらわれてしまう。人間の原初的恐怖は圧倒的な暴力にねざしている。科学的知力と原初的恐怖、人間はこの落差に引き裂かれた存在である。
 一方で人間はこのような在り方の愚劣さを認識できるし、動物的恐怖に満ち満ちた世界から脱したいという欲求を生み出していく存在でもある。とくに絶対的存在としての神を内在化した者は、その絶対性を基準に現世を見るだろうから、この世の愚劣さはいっそう耐え難いものとなるだろう。
 前者は集団レベルにおける人間の本質であり、後者は個人レベルにおける人間の本質といえる。個人レベルの人間のほうが倫理的・道徳的に優れている、とはいえるだろう。あるべき絶対的なユートピアや神の王国を想像し、そのために生命を捧げる人びとも、歴史上には点在する。アレクサンドルもまた、そうした優れて倫理的宗教的精神をもった人びとの系列に連なる人物かもしれない。アレクサンドルのとった行動は、いわば、古くからある政治と宗教倫理の緊張関係に向き合い、彼なりの解答を示したものだといえる。
 こうした宗教的信仰は魂の救済に関わる。アレクサンドルはすべてを捧げていながら何も失っていない。けれども、彼の犠牲によって世界が救済されたとはいえない。核戦争は起こらなかったかもしれないが、集団レベルの人間の倫理的劣位性と暴力に根ざした原初的恐怖が消失した世界になったわけではないからだ。サクリファイスとは個人の魂に対する呼びかけである――かつてイエスやフランチェスコや仏陀がそうであったように。だがそれはあくまで個人の内面における話であって、核の恐怖、政治の生み出す幾多の苦しみを解決するという問題は、これはまた別の次元の話である。
 戦争という行為は、徹頭徹尾、政治の世界の問題である。いかに愚劣であろうと、集団レベルでの人間は個人レベルにおけるような善良さを発揮できない。そうした本性的な限界を持つ以上、どれほど崇高な犠牲がなされようと、個人の魂と同じように世界を救済することは不可能である。結局、政治領域にあらわれる暴力を幾分でも抑制するのは、政治の場における人間の実践的知力の問題となるだろう。だがこれは同時に最初から挫折をはらんでいる。この挫折に耐え得る力を、いったい人間はどこから得るのだろう。
 アレクサンドルがとったような犠牲的行動は、先ほども述べたように、個人の魂の救済に関わる話であって、世界の救済にまで拡張することはできない――少なくともわたしはできない。ただそれでも、人間には何らかの希望が必要である。政治の愚劣さを克服していこうとするための力は、そうした希望からしか生まれないだろう。この映画にそれがあるとしたら、「こども」の存在かもしれない。
 アレクサンドルは冒頭、「こども」に、枯れ木に水を遣りつづけるという一人の修道士の地道な行為によって、ある朝枯れ木が花を咲かせたという奇跡の物語を語り聞かせていた。そして映画の最後に、父を失った「こども」はその行為を実行するであろうことが伝えられる。「こども」は未来の人類の象徴である。人類は将来にわたり倫理性への欲求を失うことはないのだと、「こども」に「希望」が託される。
 こうした倫理的ヴィジョンが集団的レベルの人間の織りなす政治の暴力性を覆い尽くすことは、残念ながらありえないだろう。だがこうしたヴィジョンは、政治の愚劣さを幾分なりともコントロールしていくための力には、なるのかもしれない。
(September 11, 2003)

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夏至

La Verticale Del
2000年 仏・越南
監督:トラン・アン・ユン
出演:トラン・ヌー・イェン・ケー
   グエン・ニュー・クイン


 母の命日に三人姉妹が集まって、母の初恋について語る。父と相思相愛だとばかり思われていた母は、晩年ぼけて、父とは別の男の名前を呼んだのだという。誰の人生にもあるであろう些細なエピソードだが、母に関わる人々にとっては、さざなみのように静かに波紋を投げかけてくるものだったのかもしれない。
 映画はその後、三人姉妹それぞれの愛の在り方について淡々と映していく。夫との仲がうまくいかず不倫をつづける長女、妊娠中に信頼していた夫との関係に蔭りがさしてしまう次女、恋人よりも兄を慕っているらしい(?)末娘――ちょっとしたズレが波紋となって広がっていき、いつか不協和音を奏でてしまいそうな、そうした危うさと憂いを漂わせている。
 ただ、全体の印象はそう淡々としたものでもない。とくに毎朝ルー・リードの音楽で起き、寺院の鐘の鳴る中、ストレッチをしたりはしゃいだりする末娘と兄の日常生活など、舞台は香港でも東京でもいいよねというかんじでとにかく無国籍的。ヴェトナムの街中の風景もカフェでの食事もとってもオシャレなイメージで、それこそ女性誌でさんざん振りまかれる「オリエンタルなヴェトナム」そのまんま。
 なんというか、ストーリーは決して悪いとは思わないんだけど(おもしろくもないけど)、小津にオシャレエッセンスをふりかけたみたいで、全体的にちぐはぐな印象を受けた。あんまりなんも考えずに、美しいヴェトナムの風景やファッションやインテリアをぼーと見ているだけでいいかもしれない。日本の都会の夏は殺人的な暑さだけど、映画のヴェトナムは風が吹き抜けていて涼しそうだなあとか、ツヤのある黒髪ストレートをもう一度見直そうとか、明日の朝はルー・リードで目覚めてみようとか、製作者の意図がこんなところにあるとは思わないけど、これでいいじゃんもう、と感想にもならない感想しかでてこないのでした。
(29.jul.2003)

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ソラリス

solaris
2002年 米
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
出演:ジョージ・クルーニー
ナターシャ・マケルホーン
ジェレミー・デイヴィス


 ソダーバーグが「ソラリス」を作っているという情報を聞いたとき、タルコフスキーの「ソラリス」があるのにソダーバーグはチャレンジャーだなあと思った。ともあれ、やっとソダーバーグ版ソラリスをみた。以下のコメントは、タルコフスキー版ソラリスを意識したうえで書いている。
 ソダーバーグの映画の特徴は、なによりもクリス・ケルヴィン(ジョージ・クルーニー)とレイア(ナターシャ・マケルホーン)の関係に焦点があたっていることだろう。ソラリス上空の宇宙コロニーのなかで、〈レイア〉がクリスの記憶のなかから蘇るわけだが、彼と彼女の間に過去に何があったかが丹念に描かれている。この点に焦点をしぼったことで、この映画は単なる二番煎じには終わっていないと評価できるだろう。
 ただ、気になったことはいくつかある。まずこの映画では、ソラリスの位置づけが「何か不気味なもの」以上のものではなかったことだ。タルコフスキーの映画では、ソラリスは「謎を投げかけるもの」だった。ソラリスという「謎」を通して、「われわれとは何か」「人類とは何か」という人間性の根源に問いかける眼差しが、あの映画にはあった。だからこそ、科学者たちはソラリスと接触したがゆえに自己の内面へと直接向き合うことを強いられ、ギバリャンは自殺し、スナウトは鬱屈に陥り、サルトリウスは人間の科学的合理性にしがみつこうとしたのだろう。
 けれども、ソダーバーグの場合、ソラリスは人間に脅威を与える客体の域を越えてはいない。ジバリアン(ウルリッヒ・トゥクール)は自殺してしまうが、息子が地球上に実際に生きているのであれば、目の前の「息子」は「不気味なもの」でしかないわけで、自殺の意味がよく分からない。ゴードン(ヴィオラ・ディヴィス)は理性と科学的合理性にしたがって振舞いつづけ、その態度からは内的な苦悩の片鱗すら見えてこなかった。スノー(ジェレミー・ディヴィス)にいたってはどうしようもない小細工がなされていて、これではソラリスと人類の接触も、エイリアンとの遭遇と大差ないように思った。
 それゆえ、見所はクリスとレイアの関係に絞られるわけだが、これに関しては先にも述べたように、評価したいと思う。セリフによる説明が多くて、タルコフスキー版のあの寡黙さから生まれる神秘性のようなものはなかったが、かえって生身の人間臭さを感じさせられた。
 ただ、わたしは正直、ふたりの関係をずっと追っていくのが辛かった。クリスにとっては、数年前に自殺した妻が目の前に肉体と肉声をもって蘇るわけである。失ったはずの最愛の人を前にして、はたして人は冷静でいられるものなのか。クリスは冷静ではいられなかった。彼は自分の使命もすべて忘れて、〈レイア〉に執着する。〈レイア〉は〈レイア〉で、今の自分がクリスの記憶のなかにある「レイア」のコピーでしかなく、本来あったはずの自己とのズレに苦しみ、自らの意志で自己を消滅させることを選ぶ。ところがクリスは、〈レイア〉の選択を頭では理解しても、もういちど彼女なしの人生を生きることができない。その無意味さと空虚さを前に、クリスもまた一つの選択をするのである。
 自分にとってかけがえのない人を失った場合、人は残りの人生を、愛する人の「不在」と折り合いをつけながら生きていくしかない。それがどれほど空虚な時間であろうとも、時間を巻戻すことができない以上、諦念や忘却や反芻によって、自分に死が訪れるまでの時を耐えていくのだろう。ところがソラリスと接触した者は、その心に刻印された傷を、きわめて残酷な形で突きつけられてしまう。ソラリスがなぜそのようなことをするのか、という次元での問いかけが希薄なために、引き起こされた事態の残酷さだけが目立ってしまう。
 タルコフスキー版においては、クリスが〈ハリー〉に対して取った行動は、「贖罪」という意味合いを強く帯びていたように思う。それゆえに、どこかしら「救い」や「解放」の雰囲気があった(少なくともわたしはそう解釈している)。ところがソダーバーグ版では、クリスの〈レイア〉に対する態度からは、人間のもっとも弱い部分が剥きだしにされたときの耐え難さ、またそこから来る痛みを、より強く感じとってしまった。わたしにとってこの愛の形は、どこか閉鎖的でどうしようもなく「耐え難い」――そう思わざるをえなかった。
(Saturday, July 05, 2003)
オマケ
この映画を観た人たちとの会話です。
その一
その二
その三

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ボウリング・フォー・コロンバイン

Bowling for Columbine
2002年 加
監督:マイケル・ムーア
出演:マリリン・マンソン
チャールトン・ヘストン
マット・ストーン


 アメリカは二重の意味で銃社会である。第一に、銃による武装は権利として認められていて、多くの国民が銃を所有することに抵抗を感じていないらしい点で。第二に、世界に類をみないほどひどい銃乱射事件が起きている点で。とりわけ、こどもによる銃乱射事件やこどもが被害者になる事件は、その痛ましさに絶句する。同時に、なぜこどもが銃を簡単に扱えるのかと、ニュースの一報に接したときに何度疑問を抱いたことだろう。
 アメリカはなぜこうも悲惨な銃犯罪が起きるのか? マイケル・ムーアは自らにこう問いかけ、コロンバイン高校の事件を取材し、銃関連商品をつくる企業にのりこみ、被害者の家族や友人など多くの人にインタビューする。断片的に知っていた内容が、ムーアの手によって、一連の出来事へとつなげられていく。(「サウスパーク」を作ったマットがコロンバイン高校の出身者というのは初めて知った。あのアニメ特有の毒々しさを生み出すような背景が垣間みえるようだった。&マットがマトモなことを喋ってたのでびっくりした。)
 あの事件を軸にすえて調査をすすめていく映画のプロセスを観ていると、率直にいって、わたしはアメリカ社会やアメリカ人の物の考え方に十分ついていくことができなかった。もちろん知識としてはアメリカが銃社会であることを知ってはいる。民兵の伝統が強く残っていたり、ガン・ロビーが強力に活動していたり、ということを知ってはいる。けれども、銃所持を支持する普通の人々の「普通」の見解を聞くのは、たとえ画面を通してであれ、ショックを受けるものだった。
 ムーアは、アメリカ人がとりたてて暴力的であったり暴力的な歴史を負っていたりするわけではない、という(ナチスや日本軍の蛮行を見よ、と)。けれども、隣の国カナダでは、銃の所持率が決して低くはないにもかかわらず、多くの市民は家に鍵をかけずに外にでかけていく。銃犯罪も驚くほど少ない。なぜこうも違いが生じるのか。
 カナダ人もアメリカに引越しすれば、怖くて玄関の鍵は閉めるだろうし、銃の必要性を身に染みるだろう。人びとの気質の問題ではない。アメリカ社会には「恐怖」が蔓延しているのだ。
 そしてムーアは、この「恐怖」を煽り、金儲けの手段にしているものたちへと、批判の矛先を向けていく。マスコミ、軍需産業、全米ライフル協会、そしてその背後にちらつくアメリカの「正義」の戦争と陣頭指揮をとる大統領。
 複雑にからみあうこれらの要因は、批判するのはたやすくとも、批判の矛先などかすりもしなさそうだ。ムーアのパフォーマンスも後半になればなるほど、ドン・キホーテさながらに滑稽な様相を帯びてくる。
 ムーアが最後に辿り着いたのが、せいぜいチャールトン・ヘストンの自宅だったりするわけだが、どうもカンチガイさせるのに成功したらしいムーアは、ヘストン邸にあがりこんで、彼に銃問題について問いただしていく。カンチガイさせられてしまったことに気付いたヘストンは、ムーアをさっさと追い払おうとする。追っ払われるムーアは最後に一言だけといって、銃で殺された6歳の少女の写真をヘストンにみせ、彼女の死に対して一言いってくれ、とお願いする。
 ヘストンは6歳で命を絶たれた少女に対して語る言葉をもたなかった。彼は何も語ることができなかった。それを観て、わたしもまた言葉を失った。
(21, Mai, 2003)
コメントはこちらにも。

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歓楽通り

rue des plaisirs
2002年 仏
監督:パトリス・ルコント
出演:パトリック・ティムシット
レティシア・カスタ
ヴァンサン・エルバズ


 まだフランスに娼館なるものがあった頃、一人の娼婦の生んだ子どもが主人公のプティ=ルイ。あまりにもルコント的だわと思ったのは、プティ=ルイに将来の夢として「女の人のお世話をすること」といわせたりする点。夢叶って(?)、オジサンになった彼は相も変わらず女たちの世話にあけくれる。白粉の匂いや香水の充満する化粧部屋ではコルセットのヒモをひっぱり、あらわになった肩をたたき、客のために装う娼婦たちの準備を手伝う。また女物の下着や服を洗濯し、顔を煤だらけにして石炭を燃やす。でも彼の本当の夢は、複数の女ではなく、「たった一人の女」の世話をすること。そうして彼は、ある日娼館にやってきた少女マリオンを、自分のすべてを捧げるべき女神とみなすのである。
 プティ=ルイの愛はすべてマリオンに向けられる――ただし、性愛の側面は除いて。彼女のほうも彼の愛に応えて心から彼を愛する――ただし、これもまた性愛の側面は除いて。彼は、性愛の面において彼女を心から愛してくれる男を探す。彼女にとってそういう男が必要なように、プティ=ルイにとっても自分に欠けた部分を補ってくれる存在として、彼が必要なのである。娼婦である彼女を娼婦としてしか扱わない男など、彼女にふさわしい存在ではない。彼女はダイヤモンドの原石だし、羽化すればどんなにすばらしい女になるだろう――そう夢見ていたプティ=ルイは、彼女が自分で見つけ出してしまった運命の男ディミトリに失望させられる。ちっぽけな盗みをやってマフィアに追われている只のチンピラ。なのに、性愛の側面において彼女を愛せる男は、プティ=ルイと同じようにすっかり彼女の虜になってしまい、見事なまでにプティ=ルイの片割れになってしまうのである。こうして三人は離れられなくなってしまう。
 「たった一人の女に尽くす」というプティ=ルイの(ある意味フェティッシュな)夢も、現実の関係においては軋みをみせざるをえない。陳腐な現実に「こんなはずではないのに」と心のなかで呟きながら、それでもマリオンとディミトリから離れられずに面倒をみてしまう。やがて訪れる結末は、甘い夢を実現しようともくろんだ男の引き受けるべき罰なのだろうか。甘美な夢と陳腐な現実、そこに垣間みえるズレは可笑しくもあるし、また哀しくもある。
 ルコントの作品にはどうしても谷崎の世界を連想させられてしまう。この映画のフェティッシュ度もかなり高め。とくにマリオンをはじめ女たちの肩から背中のライン、胸元などから匂いたつような色香を見せるところは、これでもかといわんばかりの濃厚さ。映像はとてもエロティックなのに、主人公たちは不器用でとても幼い。このアンバランスさが、ルコントの持ち味だったりするかも。
(18.apr.2003)
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ピノッキオ

Pinocchio
2002年 伊・米
監督:ロベルト・ベニーニ
出演:ロベルト・ベニーニ
ニコレッタ・ブラスキ
カルロ・ジュフレ


 「ピノッキオ」観てきました。
 ベニーニ他俳優陣の達者な演技に、映画というよりは演劇をみているような気にもなった。演劇チックなノリについていけないところもあったけど、見ごたえはあった。でも、50歳のオジサンが演じるピノッキオって、コドモに理解できるんだろうか?? コドモ対象のアメリカ映画や、日本のアニメ映画に慣れているこどもたちにとっては、かなり理屈っぽい映画のような気がする。
 じゃあオトナがみて楽しめるかというと、もちろんフェリーニへのオマージュという点でも楽しめるし、知ってるようで知らない『ピノッキオ』のストーリーも知ることができるし、CG映像の多い昨今の傾向に反して、セリフと演技力に重点をおく姿勢も好感をもてるし、おまけにクジラ(サメ?)のおなかに飲み込まれるシーンに、たむらしげるのまんが(←なつかしーい)をおもいだすこともできたりするので、楽しめます。
 
 ピノッキオが人間になっていくためには、欲望や誘惑にすぐに負けて約束を破ったり嘘をついたりする弱い部分を、失敗から学びつつ自分でなおしていかなくてはならない。たくさんの失敗をかさねながらも、ピノッキオは大好きな人に受け入れられたいために、我慢し努力することを学んでいく。一足飛びにピノッキオがイイ子になるわけではないけど、その成長していく姿をあたたかく見守ってくれる人が側にいることがとても重要なんだと思う。
 全体的にけたたましくて、見終わったときには少々つかれを感じた。頭を冷やして考えてみると、主張は非常にストレートだし、素直に捉えたら、なかなか奥深いテーマを扱っているのですね。こどもよりもおとなが見るべき映画かも。
(06.apr.2003)

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パパは、出張中

Otac Na Sluzbenom Putu
1985年 ユーゴスラヴィア
監督:エミール・クストリツッア
出演:モレノ・デバルトリ
ミキ・マノイロヴィチ
ミリャナ・カラノヴィチ


 1950年代のユーゴスラヴィアを、6歳の少年の目を通して描いた作品。あの怪作「アンダーグラウンド」の10年前に作られた作品である。少年の目を通して、といっても、実は映像はさほど徹底してこどもの視線から描かれているわけではない。
 少年マリックの家族はしっかりものの母と映画好きの兄、寡黙な祖父、それと父で構成されている。この父が出張先から愛人と一緒に帰ってくるところから映画は始まる。父が帰宅し、一家そろっての生活がはじまったと思ったら、父は警察に連行されてしまう。父はなぜ自分が連行されるのか分からないし、母も分からない。分からないまま、父は強制労働につかされる。その間、サラエヴォに残された母は、子どもたちに向かって、パパは出張中なんだといいふくめる――。
 父が連行された理由は観客には分かるようになっている。最初の車中の場面で、父が愛人にむかって、新聞の風刺漫画をさして「やりすぎだな」とボソッと呟くシーンがある。実はこのシーンが重要な伏線となっている。 
 漫画には、「スターリンの肖像画をかけた部屋でマルクスが執筆活動をしている」という場面が描かれてある。日本にいる人間にはなかなか難しい風刺漫画なのだが、多分こんなかんじ↓。
 1950年代のユーゴスラヴィアはチトーを大統領にいだいてソ連とはちがう独自の共産主義路線をめざそうとしていた。当然、当局はソ連に対しては距離をとろうとする。で、当の漫画は、「スターリン路線ですすんでいるソ連では、あたかも『資本論』を書いた19世紀の人間であるマルクスが、ソ連を指導したスターリン(当然20世紀の人)を額縁に飾って(師と仰いで?)執筆活動していたみたいなことになっているけど、ソ連の共産主義ってこんなかんじだよね、バッカみたい!」と揶揄っていたと。これを見た父が、この新聞の論調を「やりすぎ」といってしまったわけです。
 この父は、頭のキレはよさそうなオッチャンだし、50年代のユーゴでも、マトモな感覚の人なら、多分「やりすぎ」って思ったんだろうなーと思う。
 今の日本に生きているわたしたちは、当局の息のかかった新聞の論調を批判したところで首が飛ぶことはまずないのだけれど、当時のユーゴスラヴィアではそうはいかなかった。愛人はたまたま、この父のいったセリフを当局筋の人間の前で喋ってしまう。その結果、マリックの父は、体制批判者=親スターリン派=ソ連寄りの危険人物のレッテルをはられて、強制連行・強制労働となってしまったのだった。
 強制労働の期間をすぎると今度は、地方に飛ばされてそこで体制側の人間になったかどうかチェック期間が設けられている。ここでもまたさりげなーく試験が導入されているのだが、このときは父は機転をきかして「模範解答」を答える。そして家族そろってサラエヴォにもう一度帰ってこれて、一応映画は幕を閉じる。
 この社会の何がこわいかというと、反体制派の烙印を押されてしまうと、家族もすべて巻き添えにしてあっという間に人生を転落してしまうところだ。パスワードをまちがえると、二度と扉は開かない。選択肢は非常にかぎられていて、ひかれたレールから落っこちた人間は必死になってそこに這い戻るしかない。マリックの父は、その点、エネルギッシュで生命力の強そうなしぶとそ〜なオッチャンなので、一度は失敗したけれど二度目の失敗はおかさずに、ユーゴスラヴィアの共産主義体制で生き抜く方法を直観的に悟る。
 どこにでもある一家族の日々を追いながら、密告一つで人生が翻弄される管理社会の不気味さを観る者に伝えてくる。どこかに逃げ道があるわけでもなく、当局の用意する色に染まることが、その時代・その国に生まれた者に残された「無難な選択」だったりする。
 クストリツッアの手法は、直接的に、なにかを賛美したり批判したりするわけではない。ある時代に生まれた人間の「無難な選択」を突き離した目で描く人だなと思う。「あの時代はそうするしか仕方がなかったんだ」という、よく耳にするセリフの、その「仕方なさ」を描きだしているように思う。
 あとの時代から「批判的」に「1950年代のユーゴスラヴィア」を再構成するのは、おそらく簡単なのだ。でも映画はそう単純な描き方をしてはいない。あるいは、「ひどい時代でもたくましく生きる家族」といったストーリーでもない。「仕方がなかったんだ」のこの「どうしようもなさ」をつきつめて、映画は、政治や歴史に翻弄される人間の矮小さを浮き彫りにしようとしたのかもしれない。
 唯一、最後に老人ホームに行こうとする祖父の「政治なんかくそくらえだ」という捨てゼリフと、マリックの夢遊病が、監督の主張を端的にあらわしていたように思う。マリックの夢遊病は、なんともいえず痛ましい。手から離れた風船のように、ふらふらと夜の町を徘徊する少年の姿は、父のエネルギッシュな態度も、母の一生懸命さも、管理社会のなかでも生き生きと暮らしている人間のすべてを、一瞬にして色褪せさせてしまう。
 お気楽そうな日本語タイトル(これ、原語ではなんていってるのかな??)に反して、映画の後味はかなり苦くて重い。ただ、一筋縄ではいかない「現実」を相手に、一筋縄ではいかない作品を仕上げる監督の力量は、十分賛美に値する。
(30.03.2003)

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ナチュラル・ボーン・キラーズ

Natural Born Killers
1994年 米
監督:オリバー・ストーン
出演:ウッディ・ハレルソン
ジュリエット・ルイス
ロバート・ダウニーJr.


 「生まれながらの殺人者」がもしいるとすれば、どういう形で描き出せるものなのかを知りたくて映画を観た。「殺人」というテーマを扱ったものと期待したのだが、内容の照準はどうもそこではなかったようだ。むしろ、マスコミ批判という観点から見た方がよくて、この見方からすれば、よくできているとは思う。それともうひとつのテーマはやはり「愛」でしょうか? ベタな気もするけど。
 「生まれながらの殺人者」は、つきつめていくと、殺人行為に走る理由がないのに殺人を行う者のことを意味するのかもしれない。この行為が人間にとって、また社会にとって、何を意味するのか、考えていくとおもしろい。この場合、理由なき殺人行為の理由を環境に求めていったのでは、どうも迫力が欠けてしまう。親に虐待されたから、貧しかったから、まともな教育を受けられなかったから等々、これらが殺人者が殺人にいたる要因の一つ一つではありえても、理由なき殺人の理由としてはやはり弱い。映画では、ミッキーとマロリーが殺人を繰り返すのは、そうした環境による原因ではなくて(マロリーは微妙だけど)、彼らは殺人を躊躇なく行う「悪」の存在なのだと、とりあえずそういう設定にはなっている。
 映画のなかで、ミッキーが自らの「殺人哲学」をテレビカメラに向かって語る場面があって、「殺人者こそがピュアである」みたいなことをいっている。興味深く聞いてたんだけど、これはどうも彼の戦略らしい。刑務所内に暴動を引き起こして、その騒ぎに乗じて恋人を救いに行くという。ミッキーが頭のいいヤツだっていうのは分かるけど、「殺人哲学」なのかはペンディングしたくなる。
 途中、自分たちに食事を与えてくれたインディアンを間違って殺してしまうシーンがあり、この事件でミッキーとマロリーが大ゲンカする。平気で人を殺してきて、それを隠そうともしない人物を描いていたはずなのに、なんでここで「かくまって食事を与えてくれた恩人を殺してしまった」と反省するのか、前後とのつながりがよく分からなかった。もちろんこれは「普通」の感覚であって十分理解できるのだけれど、「生まれながらの殺人者」を描くにあたっては、急に反省しだす理由が分からない。
 だからこの映画は「生まれながらの殺人者」を描いているのではなく、マスコミにつばをひっかけ、管理するものとしての法や刑務所を引っ掻き回すという、アウトロー・ヒーローを描いているにすぎない。だからこそ映画のなかでは、ミッキーとマロリーが世界中の若者から熱狂的に支持されるというシークエンスが繰り返しでてくるのだろう。最後の脱獄シーンで、ミッキーたちがどれだけの数の人間を殺そうと、その大量の死はよくあるヒーロー物のフィクショナルな死でしかない。
 自分の関心から言って申し訳ないけど、「ナチュラル・ボーン・キラーズ」というタイトルにだまされた気分です。

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